用語集

【す】 9件

【水泳 (すいえい)】
大久保さんは水泳ができたのか?
調べてみましたが、大久保さんと水泳に関する記録は特になかった。
ただし、たぶん得意だったろうなという状況証拠はいくつかあります。

薩摩の郷中教育で、7才〜10才くらいの子の平均的一日はこんな感じ↓

午前6〜8時 書物を使って授業
8〜10時 すもうなどで体を鍛える
10時〜正午 朝の授業の復習
正午〜午後4時 川あそび、かけっこなど
午後4〜6時 武芸の稽古
午後6時 門限 この後は外出禁止

つまり大久保正袈裟君は毎日4時間、川で遊んでた。泳げないと考える方が無理がある。
当時の正袈裟君は平均以上の暴れん坊なので、運動神経にも問題ないと思います。

また、郷中教育では年中行事で遠泳大会のあるところも多かったらしい。
それも小学生くらいの男の子を桜島まで連れて行き、4km泳いで帰って来いというかなり無茶な内容。
下加治屋町で遠泳大会をしてたかどうかは不明ですが、隣町の松原小学校では今でもやってるそうなので、可能性はかなり高いと思います。

鹿児島の小学生の遠泳大会は「チェスト!」という映画にもなってます。


【スイス・ライフル・クラブ (すいすらいふるくらぶ)】
幕恋の前の年、慶応2年(1865年)にできた、日本初のスポーツ射撃クラブ。同じ年に横浜ライフル協会ができる。
射撃場は鉄砲場と呼ばれ、現在の横浜の山手駅付近にあった。
主に外国人が中心のクラブだが、西郷さんと大山弥助も会員になっている。

なんでスイスが最初?と思ったけど、なにしろウィリアム・テルの国なので、スイス人は昔から射撃にものすごい思い入れがある。
でもって国民皆兵で各家庭に銃があり、日ごろから練習を欠かさない方々なので、射撃クラブが必要だったのですね。

このクラブの中心人物が、ゼームズ・ファヴルブラント。薩摩に大量の銃を売ったお方。
元スイス軍下士官で狙撃の名手。横浜の自宅では射撃教室もやっていた。
つまり、薩摩はただ銃を買うだけでなく、この人に扱い方も教わってたわけですな。

幕府はフランス軍顧問団を呼んで軍制の指導を行ったが、薩摩はやらなかった。
英国公使のパークスさんはフランスと同じようなことをやりたかったみたいなんですけどね。
まあ普通に考えて、薩長が幕府に負けるより、英仏が軍事介入して植民地化されちゃう方がいやだから、国家として支援されるのは困る。

つーことで、ファヴルブラントさんは英国やスイス政府に内緒で、個人として薩摩を支援してたので、グラバーさんのように歴史に大きく名を残すことはなかったのでした。


【寿司食いねえ (すしくいねえ)】
「食いねえ食いねえ、寿司食いねえ」
というのは、幕恋とほぼ同時期に活躍した清水の次郎長の子分、森の石松を主人公にした浪曲「森の石松三十石船道中」に出てくる名セリフ。

この話、大坂から伏見に向かう三十石船に、石松が乗って旅した時の船中での会話。
時代から言って、寺田屋がもっとも繁盛していたころの話です。

石松が江戸っ子におだてられて、機嫌がよくなり
「食いねえ食いねえ、寿司食いねえ」
「飲みねえ、酒を飲みねえ」
「江戸っ子だってな」
「神田の生まれよ」
と、ぽんぽんと掛け合いするんだけど、持ってる寿司と酒をさんざん飲み食いされた後に、
「馬鹿は死ななきゃ治らない」
とからかわれる。

ここで出てくる寿司は、大坂本町橋の名物の押しずし。

大坂薩摩藩邸からだと本町橋は2kmくらいでちょっと遠いけど…。
大久保さんが幕府との折衝でお出かけすると、ちょうど途中で通る道。
小娘がねだったら買って来てくれるかな?

「わー、ほんと、おいしいです!」
と小娘が嬉しそうに食べていたら
「お前はものを食う時、本当にあほづらになるな。
馬鹿は死ななきゃ治らんというが、お前もその顔を治せんのか」
「ひ、ひどいです…」
とかいう展開になりそうだけど。


【スタッド (すたっど)】
もう半分以上は私の妄想ですが…。
当時の男性のシャツの襟は、取り外しができるタイプが、ふつうでした。

今と違って、襟だけ糊づけとかできないから、別々にして洗ってたんですね。

で、下のシャツは非常に低いスタンドカラーになってて、取り外し式の襟とは、前後左右の4か所のボタンで留めるようになってる。
そのボタンは、カフスボタンに似た特殊な形のもので、スタッドと呼ばれていました。
さらにその上からネクタイを締めて、襟を固定するわけです。

大久保さんの立ち絵の洋装は、一見、20世紀以降の形式っぽい普通のシャツに見えますが、実は当時一般的だった取り外し式の襟なのだと、私は勝手に決めております。

だってその方が、脱ぐとき色っぽいんだもん。

あと、当時のその手の襟は、ほんとにガチガチに糊付けされてますから、スタッドを付けるのもけっこう苦労する。
なもんで、小娘ちゃんに手伝ってもらう口実ができるというのも、ポイント高し♪

もちろん、大久保さんの襟とシャツにアイロンをかけるのは、小娘ちゃんの仕事です。




【スミス&ウェッソン (すみすあんどうぇっそん)】
龍馬さんの拳銃のメーカー。

最初の拳銃は慶応2年1月、幕恋の直前に高杉さんからもらったもの。こっちのモデルはどうやら、S&Wモデル2アーミー。
(「S&Wモデル2」で切ると、製造元の米国ではふつう別の銃を指すので注意)

この銃は寺田屋事件で逃亡中に紛失して、次に入手したのがS&Wモデル1-1/2ファーストイシュー。

2つの銃の外見の特徴のひとつは、銃把つまり持つところが角ばっていること。
丸っこい銃把のものにはS&Wモデル1-1/2セカンドイシューなどがあるが、龍馬さんの存命中には製造されていない。

で、素朴な疑問。
当時はS&W社はできたばかりのメーカーで、コルト社の方が老舗だった。
なんで龍馬さんは(つか、薩長の志士たちは) S&W社の方が好きだったの?

調べてみると、S&Wのモデル2アーミーという拳銃が南北戦争時に非常に売れて、その中古品が上海経由で日本に流れて来ていた。
また、最新型リボルバーの特許をS&W社が押さえていて、他社には作れなかった。おまけにコルト社は工場が火災に遭い、製造数自体が少なかった。
…ということが分かった。

まあ要するに、S&W社の方がいっぱい在庫があったわけだ。
ということで、幕末の志士の皆さんの持ってた拳銃は、ほとんどがS&W製だったっぽい。


【スミス&ウェッソン モデル2アーミー (すみすあんどうぇっそんもでるつーあーみー)】
龍馬さんの最初の拳銃。米国製。幕恋スチル等に描かれている銃はこいつである。

慶応2年(1866年1月)、幕恋開始直前に高杉さんからもらった。で、ゲームにあるとおり、寺田屋事件で逃亡中に失くす。
この銃はチップアップ式、つまり弾倉を丸ごと外して弾を替えるタイプなため、暗い中で負傷した手で操作してるうちに落としたようである。

ところでこの拳銃、高杉さんはどこから入手したのか?というのは、実はよくわかっていない。
よく言われるのは文久2年(1862年)に高杉さんが上海視察に行って買ったものだという説だが、これを裏付ける史料は特にない。フィクションなどでなんとなくイメージが広がっただけらしい。
だいたい、新しもの好きな高杉さんが、4年も前に買ったお古の銃をあげるか?ここは最新型人気モデルを出してドヤ顔するシチュエーションだろ。…と、私も思うし。
そもそもこの銃の発売は1861年。人気が出過ぎて予約限定生産状態だったので、1862年に上海で買えた可能性は薄いらしい。
また、長州藩は1865年に長崎や上海で新型の銃をしこたま買いこんでいる。
なので実際の高杉さんはフィクションのイメージよりも多くの拳銃を持ってて、そのひとつを龍馬さんにあげたってのが、正解っぽいです。


【スミス&ウェッソン モデル1-1/2ファーストイシュー (すみすあんどうぇっそんもでるわんあんどはーふふぁーすといっしゅー)】
龍馬さんが寺田屋事件後、近江屋事件までの間に持っていた銃。2丁あった。
史実だとお龍さんに1丁預けてます。

こっちは誰からもらったか定かではないのですが、龍馬さんは霧島温泉で射撃をしたと手紙に書いている。
西郷さんは寺田屋事件当日、ピストル持って自ら龍馬さんを助けに行こうとしたという記録がある。
寺田屋から薩摩伏見藩邸に逃げ込んだ後、霧島まで龍馬さんはずっと薩摩の保護下にあるので、西郷さんか誰か、薩摩の人にもらったと考えるのがいちばん妥当かなと思います。

前の拳銃のモデル2は32口径だったのに対して、こっちは旧型で22口径と小型。なので殺傷能力は低いが、軽い分だけ装弾は楽。
龍馬さんは寺田屋で襲われた時、前の銃の弾を替えようとして落っことし、結局なくしちゃった。なのでこのモデルを選んで渡すってのは、理にかなっている。

この時期はまだ、砲術と言うと静止した的にいかに正確に命中させられるか、という発想が主流。
敵と闘っている最中に、いかにすばやく弾を替えられるかなど、実際の戦闘時の使い勝手で銃を選ぶ人はほとんどいない。
誰がこの銃を選んであげたにせよ、銃で戦ったことがあるか、かなり演習を積んでる人間である可能性は高い。

ま、結局この銃は近江屋では使われませんでした。龍馬さんが拳銃を持ってることは敵もたぶん知ってたから、しかたないですけど。


【相撲 (すもう)】
龍馬さんが元力士の山田藤吉を用心棒に使っていたのは有名。
高杉さんが功山寺で挙兵した時、最初に加わったのは伊藤俊輔の率いる力士隊。
…てな感じで今と違って全国に力士が大勢いた。

薩摩藩は武張った土地柄だから、もちろん相撲は大人気。
大久保さんのお父さんの利世さんも大の相撲好きで、幼い正袈裟君を連れてしょっちゅう見物に行っていた。
なので大久保さんもかなりの相撲ファンである。

薩摩藩では千年川、陣幕、山分などの力士を抱えていて、戊辰戦争では藩主様の護衛や荷物係をさせている。
調べてみたら幕恋のころは大坂で活躍してた。定期的に京都場所も開いてたので、京都の薩摩藩邸にも来てたと思われます。

でっかい力士たちを従えて、顎で使う大久保さんの図…ってのもいいかもしんない。
小娘、わくわくしながら「すっご〜い。腕なんか丸太みたいですねっ」とお相撲さんにぺちぺち触ってみたりして。
「こら。馴れ馴れしく触るな」
「えー、大久保さんのけち」


【瑞山 (ずいざん)】
言わずと知れた武市先生の雅号ですが、この名前の由来は調べたらちゃんと記録があった。

武市さんは高知から土佐の吹井村というところで生まれた。
高知城下の龍馬さん家からは9km。歩いて2時間かかんないけど、ちょっとひなびた山村っぽい雰囲気の残るところである。

で、武市さんの家は小さいけどわりと形のいい小山…つーか丘の前に立っている。
つまり、吹井村にある山の前の家→吹山(すいざん)ってのが最初の雅号だった。
そのうち、吹の字はあんまり雅号っぽくないねってことで、響きの似ている瑞山(ずいざん)=美しい山、に改めたそうである。

Wikipediaには変名を使った時の雅号だけ吹山としたってあるけど、まあ、その時だけ昔の雅号を使ったってことなんでしょう。



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