用語集

【せ】 10件

【Sailor Man (せーらーまん)】
大久保√で小娘が船乗りのことを、英語で"sailor man"だっけ…と考えるシーンがある。
たしかに、昔はそういう言い方をしていた時代はある。
有名な用例では、マンガ"Popeye the Sailorman"など。
ただし、このタイトルは性差別的であるとして、少なくとも1970年には、"Popeye the Sailor"に変更されている。
ほぼ同時期に、英米ではsailormanまたはsailor manという単語は使われなくなり、今では辞書にすら載っていない。
つまり、終幕の某設定を考慮した場合、小娘がこの単語を覚えたのは1970年より前ということになるので、小娘の年齢は少なくとも45才以上という結論になる。
``r(=・ ェ ・;=)オイオイ…

また、現在米国のオタクなど、ごく一部の世界では"sailor man"という単語は、船乗りではなく「セーラー服のコスプレをする男」という意味で使われている。
まあ、そこまで行かなくとも、"sailor man"または"sailorman"に対してネイティブスピーカーの持つイメージは、ポパイのような戯画化されたキャラとしての水夫であり、実際に船舶で働いている船乗りのことではない。

うーむ…ヾ(=;´ ェ `A
たかがsailor manでこんな話になるとは…。


【星座 (せいざ)】
大久保さんの誕生日は1830年9月26日(文政13年8月10日)なので、星座は、てんびん座です。
ついでに言うと、干支は寅年。
幕恋の舞台の1866年(慶応2年)も寅年なので、年男です。

だから何だという話ですが。

ちなみに、他の方は…。

慎ちゃん(1838年5月6日)おうし座。いぬ年。
武市さん(1829年10月24日)さそり座。うし年。
以蔵(1838年2月14日)みずがめ座。いぬ年。
高杉さん(1839年9月27日)てんびん座。いのしし年。
桂さん(1833年8月11日)しし座。へび年。
乾さん(1837年5月21日)ふたご座。とり年。
土方さん(1835年5月31日)ふたご座。ひつじ年。

龍馬さん・半次郎さん・西郷さんは旧暦か西暦かで干支が変わるので微妙ですが…ここは旧暦を採用して…。
龍馬さん(天保6年/1836年1月3日)やぎ座。ひつじ年。
半次郎さん(天保9年/1839年1月)みずがめ座。いぬ年。
西郷さん(文政10年/1828年1月23日)みずがめ座。いのしし年。


【聖人の日 (せいじんのひ)】
昔の欧米、特にカトリック諸国の暦では、1年365日それぞれに聖人の名前が付いていて、子どもには誕生日の聖人の名前をつける習慣があった。
面白いので、志士の皆さんの誕生日ではどんな名になるか調べてみた。

大久保ダミアン(9月26日)…殉教した双子のひとり。医学者の保護聖人。ダミアンっすか…。
坂本ジーザス(1月3日)…イエス・キリスト。
中岡エドバート(5月6日)…アングロサクソン七王国のひとつ、ノーサンブリアの黄金期の王。国内が統一されず複数勢力に分かれていた時代に、皆を率いてがんばったお方。
武市アンソニー(10月24日)…キューバの大司教。スペイン植民地で独立運動が始まるちょっと前の時代に、ちょりっとダークなイメージながら、強大な組織力で時代を動かしたお方。
岡田ヴァレンタイン(2月14日)…恋人たちの守護聖人。
高杉ヴィンセント(9月27日)…農民や奴隷など、貧しい者や身分の低い者に尽くした人。
桂クレア(8月11日)…アッシジのフランチェスコに最初に帰依した聖女。…って、女かよ!
乾ユージーン(5月21日)…フランス貴族の息子で、革命後の混乱期に市民への教育や啓もう活動に努めた。
西郷アルフォンス(1月23日)…西ゴート出身のトレド大司教。ヨーロッパ南西端のスペインでだけ極端に人気の高い聖人。

なんとなく、生まれながらにこういう運命なんですねって感じで面白いです。


【生誕地 (せいたんち)】
大久保さん関係者の生まれた場所を整理のために一覧にしてみた。
いろんな説のある人もいるので要注意。
下に行くほど城から遠くなり、格が下がる。()内の数字は大久保さんとの年齢差。

≪鹿児島城下≫
【平之町】篠原藤十郎(-7)
【西千石】新納中三(-2)
【上加治屋町】岩下左次右衛門(+3)
【高見馬場】柴山愛次郎(-6)
【下加治屋町】西郷吉之助(+3)、吉二郎(-3)、竜助(-13)、小兵衛(17)兄弟)(→上之園町)。大山彦八(-4)、岩次郎(弥助)(-12)、誠之助(?)兄弟。東郷仲五郎(平八郎)(-17)。
【新屋敷町】黒田了介(清隆)(-10)。
【不明】堀又十郎(伊地知貞馨)(+4)
≪鹿児島城西≫
【薬師町】村田(高橋)新八(-6)(→高見馬場)
【西田町】橋口伝蔵(-1)、覚之進(-7)兄弟(→下加治屋町)。
【上之園町】大山格之助(+5)。伊地知竜右衛門(正治)(+2)。中原猶介(-2)。
【高麗町】大久保正助(0)(→下加治屋町)。吉井仁左衛門(+2)。有村俊斎(-2)、雄助(-5)、次左衛門(-9)兄弟。奈良原喜左衛門(-1)、喜八郎(繁)(-4)、高島鞆之助(-14)。
【荒田村】永山弥一郎(-8)、松方助左衛門(-5)。
≪鹿児島城東≫
【清水馬場】伊東四郎(祐亨)(-13)
【実方】中村半次郎(-8)
【川上町】高崎正風(-6)
≪外城≫
【日置】有馬新七(+5)(→上加治屋町)
≪不明≫
税所喜三左衛門(篤)(+3)…下加治屋町方限ではないが、その近所


【精忠組 (せいちゅうぐみ)】
西郷さんと大久保さんが中心になって始めた勉強会のメンバーが、その後だんだん増えて薩摩の下級武士たちを代表する集団になって行ったもの。
「精忠」の名の由来は、西郷さん大島潜伏中の1859年に、大久保さんたちが藩主父子からもらった手紙の文句だが、精忠組と呼ばれるようになったのは後世のことで、本人たちに「組」という自覚があったかどうかは疑わしい。

もともと薩摩武士の子弟には郷中教育などで常に集団で行動したり、人望のある年長者を訪ねて教えを請う習慣があった。
藩校(造士館)の出身者や教師が多いのも特徴。その辺は学生運動っぽくもある。

そのへんは武市さんの土佐勤王党が、設立時に理念を文書で謳い上げ、同志を集めて名簿を作り、最終的には数百名の大組織になったのとは違って、人数も数十人程度だし、活動のしかたもものすごーくいい加減。

西郷さんのいる時は、皆がその後をわーっとついて行くからいいんだけど、いない時は過激分子がすぐ暴走する。
で大久保さんが頑張って抑え込んだり、なんとか西郷さんを連れ戻して来たりする。明治の初めまでこのパターンは続く。

ただし寺田屋騒動を契機に、精忠組の仲間たちが集団で過激な行動に走ることはなくなる。その時に生き残った面々は薩英戦争時に謹慎を解かれて活躍し、その後の倒幕活動や新政府確立で重要な役割を果たしていくことになります。


【静定工夫試忙裡和平気象看怒中 (せいていのくふうをぼうりにこころみわへいのきしょうをどちゅうにみる)】
大久保さんの座右の銘のひとつ。
つか、少年時代に西郷さんとかといっしょに通って教わってた禅寺の和尚さんの無参さんの教え。
後に大久保さんの部下になった松方正義の解説によると、どんなに入り組んだ困難な問題に直面しても余裕しゃくしゃくな態度を取り、怒り心頭に達して体中がカーッと熱くなってる時でも平然といつものようにふるまうのが大人物というものだ、という意味だそうです。

つーことで、大久保さんは怒った時の方が、いつもより声が低くなり、ものすごく冷静沈着っぽい態度になった。
西郷さんは大久保さんが声を低くして話し出したら用心しろと言ってたそうな。

ということは大久保さんは「無礼者っ!」とか「失敬なっ!」とか怒鳴ってる時より、表情を変えず「小娘…」とボソッと言う時の方が怒ってるのかな?
小娘本人には絶対通じてないと思うけど。


【西南戦争 (せいなんせんそう)】
大久保さんの生涯において、おそらく最大のトラウマとなったであろう事件。
まあ、翌年死んじゃうから、トラウマ引きずってた期間は短いけど。
背景は非常に複雑なのですが大雑把に言うと、明治になって特権を奪われた薩摩の元サムライの人たちが、西郷さんを担ぎ上げて起こした反乱。
ハリウッド映画「ラストサムライ」のヒントにもなってる。…まあ、あの映画と違って、西郷さんの場合は、南九州全域を舞台に万単位で最新鋭武器装備の兵を動かしてるけどね。
半次郎さんも西郷軍に加わってて…というか、最強硬派として突っ走ってました。
で、大久保さんは政府責任者として鎮圧側に立たざるをえず、結果的に西郷さん、半次郎さんその他、何千人もの旧薩摩藩士を戦死させることになる。
そしてその後、大久保さんは百年以上にわたって、鹿児島県人から悪魔のようにののしられ、忌み嫌われ続けることになる。
ただ、西南戦争は、旧武士で特権のあった人々の起こした反乱なので、たいして特権のなかった郷士などの低い身分出身の人や、次男以下の人には、冷ややかに距離を置いていた人も多い。
結局、幕末期に、身分制度やサムライを無くすという理想をかかげて突っ走っていた時に、その意味を肌でわかっていた人間と、かっこいい理想論として夢中になっていた人間との違いなのかなあ…なんて私は、思ってしまいます。


【節分 (せつぶん)】
山口県では、節分に鯨を食べる習慣があるそうです。家によっては鯨は正月料理のところもありますが、旧暦だと正月と節分はほぼ同時期なので、同じことです。
「花燃ゆ」で会話に鯨がちょくちょく出てくるので調べてみたところ、当時の長州藩は捕鯨に力を入れていたため、鯨料理の伝統が残っているとのこと。
高杉さんや桂さんも、節分には鯨を食べたのかな。

ところで幕恋の年、慶応2年は寅年で大久保さんは年男。なので、豆まきをやらせたいんですが、悩みがあります。
この前後の節分の日は

1866年2月3日=慶応元年12月18日
1867年2月3日=慶応2年12月29日

つまり、節分は年末にやります。さて大久保さんはゆく年くる年、どっちの年に豆をまくべきなんでしょうか?

もうひとつ。年越し蕎麦は本来、節分に食べるものだったそうです。
しかし幕末の薩摩では節分に食べる習慣だったのか、大みそかに食べていたのか、そもそも年越しそばを食べていたのかは、今のところ不明です。


【詮議 (せんぎ)】
詮議とは普通は取り調べのこと。
ただし薩摩では、郷中教育で判断力を訓練する手法のことを指す。

例えば「急いで知らせなければいけないことがあり、馬を走らせても間に合わない。どうするか」「薬が一人分しかなく、親と藩主が死にかけている。どうするか」などの質問をする。相手は必ず、その場で何か答えないといけない。

薩摩はイギリスと付き合うようになると、すぐに気に入られて、倒幕を支援されるようになるが、その背景には詮議で鍛えた判断の速さがある。幕府の役人は、イギリス人が何を話しても「持ち帰って上司に相談する」と言って、なかなか話が進まなかったが、薩摩の役人はその場で自分の意見を言い、すぐに話の結論が出た。

西郷さんは加治屋町で郷中の二才頭してたから、同じ町内の青少年たちは、西郷さんの監督の下で、詮議の問題に頑張って答えながら、西郷さんの目指す理想の志士像を叩きこまれたことになる。

この教育法は、元々は戦国武士の子弟教育法で日本各地にあった。
島津氏は他藩と違い、戦国から一度も領地を動かず、家臣を減らすこともしなかったので、薩摩藩では幕末近くまで戦国武士の習慣や考え方が色濃く残っていた。詮議もそのひとつらしい。


【洗面器 (せんめんき)】
当時の欧米の住宅をそのまま保存した博物館などに行くと、よく寝室のチェストの上なんかに洗面器と水差しがあることがある。
夜に汲み置いておいた水で、朝に顔を洗ったんだそうだけど…排水設備のない部屋と、防水など一切してないような家具調度を見て、どうやって使ったんかなあといつも悩む。

大久保さんもその手の洗面器&水差しセットを使っていた。
それも、真っ青なガラス製のなかなかオシャレなやつである。
当時の欧米でも、ふつうの家はホーローとか金属とかの洗面器を使っていた。ガラス製を使ってたのはかなり上流の家庭だけである。
なんかこだわってるなーと、洗面セットを見て思いました。

ちなみに大久保さんの血液型がO型だとわかっているのは、この洗面セットや身だしなみの道具が、暗殺当日の朝に使った状態のままで保存されていて、髪の毛がついていたからです。



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