用語集

【た】 16件

【太平天国の乱 (たいへいてんごくのらん)】
中国で1850年〜1864年8月(元治元年7月)に起きた大規模な反乱。

1862年に幕府はこの乱の情報収集を兼ねて、上海に使節団を送り、その中に高杉晋作と五代友厚がいた。
後に長州藩が奇兵隊を作り、薩摩藩が蒸気船を大量に購入したのは、二人の視察がきっかけという説もある。

また、英国艦隊には数百隻の軍艦が所属していたのに、1863年の薩英戦争に7隻と1864年の下関砲撃で9隻しか送って来なかったのは、太平天国の乱の鎮圧に出払っていて、日本に送る余裕がなかったから。
この乱がなくて、薩長に数十隻の艦隊が攻めて来てたら、今ごろ日本はどうなってたんでしょう。

実際、薩英戦争の旗艦だったユーライアス号の動きを見ると、1855年にはクリミア戦争でヘルシンキ付近を砲撃し、1862年には太平天国の乱で上海付近を砲撃し、1863年に薩摩、1864年に長州に来ている。
なんかすごい大忙し。…そんなにあちこち砲撃すんなよと思うけど。

太平天国の乱の死者数は数千万人に上るという説もあり、史上最も犠牲者の多かった戦争と言われている。
(ただし、戦闘による犠牲より伝染病や飢餓によるものが多いと思われる)
この乱は、欧米列強の侵略と王朝の弱体化で国土が荒れるとこうなりますよ、という最悪の見本だったわけで…。
日本をこんなふうにしちゃいけないって、幕末の志士の皆さんはがんばったのかな?


【高島流砲術 (たかしまりゅうほうじゅつ)】
長崎の町年寄だった高島秋帆が、オランダ人や洋書に学んで始めた西洋砲術。
幕末に一世を風靡し、気の利いた志士ならたいがいは秋帆の弟子か孫弟子に習っている。
桂さん、大久保さん、龍馬さん、以蔵、武市さん他、幕恋キャラも学んでます。

秋帆は幕府直轄地の長崎の人だから、最初は幕府に西洋砲術の必要性を説き、今の高島平で演習を行った。最初の弟子は幕府の旗本たち。つまり、このまま行けば西洋砲術は幕府が独占し、各藩を圧倒する軍事力を築いたはずだった。
しかし秋帆の出世を妬んだ鳥居耀蔵(遠山の金さんのライバルの南町奉行として有名な悪役っすね)により冤罪で投獄される。

幕府の軍備改革はそこで中断したけど、各藩は蟄居中の秋帆や弟子たちの元に、密かに自藩の秀才たちを送り込んで入門させ、砲術指南として軍備改革をさせ、結局はそれが倒幕につながった。

高島流砲術の特徴は、多人数の兵隊を号令で戦術的に動かし、敵を弾幕で圧倒すること。そのため、何度も集団で演習を繰り返して、一糸乱れぬ行動ができるまで訓練する必要がある。
逆に一人の射手が頑張って洋式銃の命中率を上げても、ただ最新式の銃を買い込んでも、西洋砲術に詳しいとは言えない。


【高千穂峰 (たかちほのみね)】
鹿児島県と宮崎県の県境、霧島連山のひとつ。江戸時代は薩摩藩。
幕末ものだと龍馬さんが新婚旅行中に上って、天逆鉾(あまのさかほこ)引っこ抜いたんで有名。

天孫降臨伝説で、ニニギノミコトが高天原から地上に降りてきた地がここと言われている。
ニニギはこの近くの土地神の娘コノハナノサクヤヒメと結婚する。二人のひ孫が、初代天皇の神武天皇。
要するに薩摩藩の皆さんから見ると、天皇家には薩摩おごじょの血が流れてるということになる。

そのせいかどうか知らないですが、幕末・明治の薩摩の皆さんの神道への思い入れはけっこうすさまじいものがありました。
他藩の場合、尊王思想っていちおう理論的に語られることが多いのに、薩摩だとなんか感情論に流れて、皆でわーっと一斉に走って行きがちなのは、このせいかも知れません。

なお大久保さんのいとこの利貞君は、陸軍を退役後、霧島神宮の宮司となります。


【高輪 (たかなわ)】
明治になってから大久保さんの別宅のあったとこ。
当時の地名は芝区二本榎西町。地元民には大久保山と呼ばれた。
現在の明治学院前交差点南側一帯で、住宅地になっている。

高輪近辺には、薩摩とイギリス関係の施設が多かった。

明治6年くらいまで、薩摩出身の政府関係者のほとんどは、奥さんを薩摩に置いたまま、東京で単身赴任していた。
どうも当時の薩摩の女性には、東京は外国のように遠い怖い所と思われていたらしい。
ただし、高輪の大久保邸には、妾のおゆうさんと息子たちも住んでいた。他に東京には、長男の彦之進君と二男の伸熊君もいて、しょっちゅう訪ねて来たから、かなりにぎやかだったらしい。(二人は教育のために別の家に預けられていたっぽい)

邸の敷地の中には農園があり、おゆうさん達が西洋の野菜や果物を栽培して、食糧事情改善のための研究をしていた。
日本人向けの献立研究もしてたようである。
小娘ちゃん、明治になったら何をやらせようかと思ってたけど、このお仕事は合っていそうだなー。

この邸は和風建築で明治22年に大火事で焼失し、多くの遺品が焼失した。幕末明治の大久保さん側の情報が少なくて、現代のフィクションでは言われ放題に悪役にされちゃいがちなのは、この火事もせいでもあります。


【隆盛 (たかもり)】
幕恋の大久保さんは、西郷さんと大親友なのに、下の名前で呼ばず「西郷」と呼ぶ。
西郷さんは、ちゃんと設定してなかったのか、登場場所によって大久保さんの呼び方が変わって、「利通」だったり「大久保どん」だったりする。

じゃ、大久保さん、西郷さんと弟の信吾君が一緒にいる時は何て呼ぶのかな…と考えてみた。
と、言うのは、西郷さんを呼ぶ時、親しい人でも下の「隆盛」って名前を使わないみたいなので。

とりあえずまず、西郷さんがいつから隆盛になったかを調べてみた。
そしたら、何と明治2年8月からでした。
つまり、幕恋の時代はまだ、西郷吉之助隆永だったわけです。

ただし、当時も、誰も西郷さんを隆永とは呼ばない。
なもんで、明治2年、西郷さんが留守中に書類手続きでフルネームが必要になった時に、政府から聞かれた友人は、西郷さんの父親の隆盛の名を間違えて教えちゃった。
西郷さん、後でそれを聞いて、じゃ今から隆盛でいいやと、そのままにしてしまった。

そんな経緯があるから、西郷さんを呼ぶときに、誰も「隆盛」って呼ばないらしい。
その後もどうやら、親しい人が西郷さんを下の名前で呼ばないといけないときは、「吉之助さぁ」と言ったらしいです。

ということは、西郷兄弟が一緒にいる時は、大久保さんは「吉之助」と呼ぶのかな。

どうなんでしょう…。
ヾ(=;´ ェ `A


【畳回し (たたみまわし)】
大久保さんの宴会用かくし芸。
文字通り、座敷の畳を一瞬で引っぺがして手のひらの上で回す…って、どういう芸なんだ?
相当酒入ってないと…素面じゃできんな…。

一説によると、大久保さん、古式柔術はわりと得意だったので、忍者ものによくある畳返しもできたらしいっつー話である。ほんとかいな。


【種子島 (たねがしま)】
1543年にポルトガル人から火縄銃が伝わった土地。
都道府県でいうと鹿児島県。江戸時代は薩摩藩。
鉄砲伝来当時の領主、種子島時尭は島津家の家臣である。

まあ要するに、薩摩の武士の皆さんは、鉄砲を初めて使ったのは俺たちだっつーことで、銃にけっこう思い入れがある。
薩摩の戦い方の特徴は、武士のほとんどが徒歩で銃を持って戦うこと。

九州から遠い藩では鉄砲が伝わるうちに戦い方が変化し、もっぱら武士は騎馬で戦い、鉄砲を撃つのは足軽だけと分化した。
んで、銃は身分の低い者の武器という意識が根強くなり、武士は銃を持ちたがらないので、幕末の兵制改革が遅れた。
薩摩藩の武士はほとんど抵抗なく、つか喜んで西洋式の銃を使った。

ただしこれって、銃か刀かの二択ではなく、両方使って戦えばいいと思ってるだけ。
なので旧幕側が戊辰戦争で「刀の時代は終わった。これからは銃の時代だ」と気持ちを切り替えたのに、薩摩では廃刀令の時代になっても「刀を捨てろとはないごとじゃ!」と怒る人が多かった。
ちなみにリアル半次郎がリアル大久保に文句を言おうと執務室に乗り込んだけど、気圧されて口聞けなかったというエピソードは、この時のことです。


【卵ふわふわ (たまごふわふわ)】
江戸時代の卵料理。近藤勇の好物。静岡県袋井市の名物料理。
現代的なかわいい名前だが江戸初期からある料理で、弥次喜多にも出てくる。

かんたんに言うとすまし汁の卵とじだが、卵が泡立てられているので軽いふわふわの触感で、上にかけた黒胡椒のピリッとした辛味がアクセントになってて、食欲ない時やお腹の調子の悪い時にはいい感じ。
卵とだし汁だけの超シンプルな低予算料理だが、江戸時代は卵が高かったので将軍にも供された高級料理だった。


↑うちで作ったやつ。本物はもっとクリーミー。

レシピはいろいろあるけど

クリーミーに軽く仕上げたい場合は
袋井市の卵ふわふわレシピ

もう少し卵の食感を残したい場合は
@一人用の小さな土鍋に少し濃い目のすまし汁(200ccくらい)を作って煮立てる
A卵1個に砂糖少々を入れて泡立てる
B土鍋の火を止め、鍋の隅からAを一度に流し入れる
Cふたをして蒸らす
D薬味に黒こしょうをふる(薬味は胡椒でなくても、海苔や山椒など好きなものでいい)

なんで近藤勇?って思ったけど調べてみると新選組では鶏飼ってたし、生家の多摩では闘鶏がブームだったので、卵はわりと簡単に手に入ったみたいです。
きっと沖田さんの調子の悪い時にも、食べさせたんだろなあ。


【タラップ (たらっぷ)】
幕末〜明治初期の黒船が出ているドラマを注意深く見ていると判ることですが…。
黒船が日本の港などに接岸して、タラップ(船と岸をつなぐ階段みたいなやつ)を使って人が乗り降りしているシーンは一切ない。
常に、沖に停泊している黒船に、小舟で近づいて乗る。

有名なシーンだと、吉田松陰の密航の時とか。

黒船のデッキの手すりも、船の横側の一部が低くなっていて、そこに小舟を引き上げて、乗り込む仕組みになっている。

これは日本の港の設備が近代化されてなかったためと言われていて、1889年に横浜港が改修されて、やっと黒船が接岸できるようになった。
でも、欧米ではもっと早くタラップで乗り降りできてたのかというと…どうも資料が見当たらない。

ちなみに、出航する船を紙テープで見送るのは、1915年に始まった日本独自の習慣。
万歳三唱は1899年から。

そんなこんなで明治初期の大型客船の見送り風景は…小舟に乗った人に向かって、皆で小旗をふる程度なので、いまいち絵にならないのだ。


【探検家 (たんけんか)】
幕末から明治にかけて活躍した探検家を調べると、意外に大勢いる。

その目的地は大半が蝦夷地。次に南西諸島。
この時代の欧米の探検家は学術研究や名声が目的の人が多い。が、日本の探検家の動機の大半は列強の進出を警戒した偵察旅行である。

高杉さんのお師匠の吉田松陰も、日本の北方の守備を確認するために東北方面に旅行したが、津軽海峡を渡るまでには至らなかった。しかし、そののちに蝦夷地を何度も探検した松浦武四郎という人を二度にわたって訪問している。
松浦さんは「北海道」の名付け親。

松陰は密航を企てて捕縛される半年前、1854年正月には、松浦さんを訪ねた。ロシアの脅威について夜遅くまで語り合ったのはいいのですが、ふと気づくと家には布団がひとつしかない。なもんで二人で一緒の布団に寝たとかいう話がある。
松陰先生、何やってんですかねー。
ま、幕末当時、一組の布団で数人寝るのは当たり前の習慣だったらしく、写真なんか見るとひとりで寝てる方が少ないですが。

松浦さんを始め、この時期の探検家は幕末の志士や明治の政治家と関わりが強い人が多い。初めは国防や領土問題のために奔走し、後に現地の人々の生活を守るために開拓当局の責任者になったり、反対に改革を訴えたりといった活動を行った。

ま、要するに、当時は探検家も「皆が笑って暮らせる世の中を作る」お仕事のひとつだったわけです。


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