用語集

【ち】 11件

【茶 (ちゃ)】
幕末の日本の主要な輸出品は生糸と茶。
生糸は主に横浜周辺で作られ、輸出されたが、茶は長崎の女商人、大浦慶などを中心に、九州産のものが多く輸出された。
1859年の茶の輸出額は40万ポンド。これが幕恋の翌年の1867年には945万ポンドに急増している。
当時の英米はアリスの話にあるように、ティーパーティーが流行し、茶の消費が拡大した時期でもある。

当然、日本国内の茶は品不足となり、価格が高騰。
特に京都の庶民の間の噂では、薩摩が密貿易をして、外国に大量の品物を売っているために、物が不足していると信じられていたため、薩摩の人気は急落した。
あまりの不人気ぶりに薩摩藩は非常に政治がやりにくくなり、なぜか妙に人気の高い長州と、薩長同盟を結ぼうとするに至った…という説もある。

なんで、小娘が大久保さんのお茶の葉っぱを買い足しに行って、薩摩の関係者とわかると、京都の人たちから嫌味を言われて…なんて展開もあったかもしれない。
小娘は、大久保さんに大好きな茶ぐらい、余計な心配させずに飲ませてあげたいと、何も言わずに黙ってたと思うけど…。
そういうこと、気づかない大久保さんでもないだろうなあ。


【茶坊主 (ちゃぼうず)】
その名のとおり、お茶を淹れる役目の人。
茶道方というお役所に務めてて、お茶を出す他に花を活けたり美術品を管理したりする。
お坊さんだから頭は剃ってるけど、身分は武士なので服装はお侍。袈裟は着ない。

鹿児島城で藩主とか偉い人のとこへ訪ねて行くと、この茶坊主がお茶を持ってくる。
京都藩邸ではどうなのか、いまいちわかんない。ドラマだと二本松藩邸のシーンで茶坊主を時々見かけることはある。
まあ幕恋の場合、お茶坊主がいても大久保さんは小娘に茶を持ってこいと言うだろし、伏見藩邸だと小さいので茶道方まではないと思う。

薩摩では茶坊主は一種の失業対策。長男で藩校の成績が悪くて、他の役所で採用してもらえなかった子や、次男以下がなり、貧乏な家の子が優先される。
薩摩の志士には有村俊斎とか樺山三円とかお坊さんっぽい名前の人が多いが、皆さん茶坊主出身。
偉い人に知り合いが多いので、藩内を説得して回るのが上手い。
西郷さんの弟の信吾君も、竜庵という茶坊主だった。ま、合わなくてすぐ辞めたっぽいけど。

つまり何が言いたいかというと…薩摩の志士の皆さんは、お茶汲みのプロだった方が多い。
なので小娘が大久保さんにお茶で文句言われてしょげてると、若い藩士さんたちが寄ってたかってアドバイスしてくれるんじゃないだろか。
んで、大久保さんの機嫌はさらに悪くなるのであった。


【忠義填骨髄 (ちゅうぎこつずいをうずむ)】
高杉さんの洋装の背中の字。
奇兵隊の軍旗にも使われてた。字を書いたのは三条実美卿。

この文句の出典は藤田東湖の書いた「回天詩」。
この人は水戸学の学者で、西郷さんや吉田松陰先生なども教えを請いに行き、強い影響を受けた。
要するに尊皇攘夷思想の本家本元、高杉さんから見れば師匠の師匠。

「回天詩」は、1844年ごろ、東湖が主の斉昭公とともに失脚して蟄居していた時期に書かれたもので、「猶餘忠義填骨髄(忠義の心はまだ体の髄に詰まってあふれている)」と、いまだ熱い志は消えていないことを高らかにうたっている。
回天とは天地をひっくり返すこと。つまり革命とか一発逆転の意味。

東湖の詩には名文句が多いので、幕末の志士たちが自らを鼓舞するのによく使われた。
高杉さん的ノリとしては、老舗の「尊皇攘夷」系ブランドの有名キャッチコピーみたいな感じですかねえ。
幕恋では高杉さんは小娘に、かっこいいとわかれば十分だと言ってますが、あながち的外れじゃない解釈かも…。

ちなみに大久保さんは、正助時代、吉之助君や仲間たちが斉彬公に抜擢されて初めて江戸に行き、「藤田さんという大学者に会ったぞ!」と大興奮して逐一教えてくれるのを、鹿児島に残った連中と一緒に「江戸はすげーなー」と大まじめに勉強会開いて大激論してた。
要は東湖さんは、正助・吉之助の青春時代の象徴みたいな方ですな。


【中書島遊郭 (ちゅうしょじまゆうかく)】
京都の遊郭というと有名なのは嶋原(しまばら)ですが…。
当時、それと匹敵するくらいの規模だったのが、伏見の中書島遊郭。

場所は…なんと、寺田屋とは、細い水路をはさんだお向かい。寺田屋のすぐそばに橋があるから、ちょちょいと行けます。

うーん…寺田屋ってのはアヤシイ場所にあるんだよとは聞いていましたが…そんな近くにそこまで大きな遊郭があったとは知りませんでした。

と、驚いていたら、なんと伏見の長州藩邸はさらに近く、遊郭の真ん前にあった。
こっちは禁門の変で焼けちゃってるので、幕恋の時代にはありませんが…。

遊郭は安宿街も兼ねているので、たいがいは交通の便利なところにある。
中書島遊郭のなじみ客には三十石船の船頭さんや常連客が多かった。
三十石船が伏見を発って最初の橋をくぐる時に、遊女が橋の上に立って、大坂に向かう恋人に声をかける情景は、当時の人にとっては旅情をそそる風物詩と思われていたらしい。


【忠臣蔵 (ちゅうしんぐら)】
12月14日は赤穂浪士が吉良邸に討ち入りした日。
薩摩の郷中ではこの日の夕暮から明け方にかけて、「赤城義臣伝(せきじょうぎしんでん)」という忠臣蔵の本を皆で順番に読む会を行う。

部屋の真ん中に壇を設けて、二才の代表が上がっていろいろ工夫しながら感情をこめて朗読し、疲れたら次の人に交代する。
稚児たちは一段下がったところで、それを聞く。漢文なので難解だし、とにかく長丁場なので、途中で寝ちゃう子もいる。
途中の休憩で「あわんなっと」という粟と生姜と黒砂糖で作ったお汁粉を食べる。
んで、明け方に輪読が終わったら、士気を高めるために近くの山に登り、帰ってきて解散。ハードだなあ。

幕恋の年の1866年にも京都の西郷さんちでこの輪読会は行われていて、慎ちゃんが飛び入り参加して記録を書き残している。
西郷さんは仕事で留守。大久保さんも来てない。

ちなみにうちのサイトでは大久保さんに忠臣蔵の悪口を言わせていますが、実のところは少年時代からかなり忠臣蔵は好きだったっぽい。
安政ころ、井伊直弼暗殺を計画して脱藩しようとした時に藩上層部に声明文みたいの書いてますが、「亡き殿の無念を晴らすために、我々が代って敵を討つんだ!」と、どっかの話を彷彿とさせる熱い主張をしてます。

もしかして…忠臣蔵って、大久保さんにとっては黒歴史か?


【長州閥 (ちょうしゅうばつ)】
明治時代、政府や陸軍の中心になって動いた人たちには、長州出身者がとても多くて、また、彼らの団結力もけっこう強かった。そのため、外部からは長州閥と言われて批判された。
明治維新を担った藩は、薩長土肥と言われる四藩なんだけど、結局最後まで残ったのは、伊藤博文や山縣有朋など、当初は政治家としては小物って言われがちだった長州出身者なんだよね。ついでに言うと、身分が低くて誰にも相手にされなかったのに、高杉さんに重用されて表舞台に出てきたって人が多い。
幕末にあれだけ人が死にまくった長州勢が、明治までしぶとく生き残ったのは、やっぱ、土佐や薩摩のように、藩内でつぶし合いをしなかったってのが大きい気がする。なんか世代交代がうまいっていうか。志士の中ではかなり年齢の高い西郷さんがずっと引っ張ってきて、明治後の社会の激変に精神的抵抗が大きかった薩摩と違って、長州は若い人がどんどん出て来て、サラッと海外の価値観も受け入れちゃった感じではある。

もうひとつ言えるのは、長州は幕末期に活躍した人たちはほとんど中央政界に進出しているが、薩摩はそうでもないこと。
海江田信義・税所篤・五代友厚など、大久保さんとの関係が深くても明治政府の中枢には入らなかった人もいる。
これは大久保さんは人材登用で薩摩をひいきせずに実力で採用したことや、近畿など地方の経済振興を重視したことも関係してるっぽい。


【長男 (ちょうなん)】
江戸時代の武士は長男が家を継ぐ決まり。つまり就職が保証されているのは長男だけである。
なので通常長男はちやほやされる代わりに、自分が弟や姉妹を一生養う覚悟を叩きこまれる。
長男に生まれた、または兄が死んでいちばん上になった志士の皆さんは弟や姉妹に対してどうなのか調べてみた。

@お前達は兄さんが守る!と使命感に燃えるタイプ→大久保さん、武市さん、半次郎さん
A兄さん、仕方ないなあ…と弟や妹の夫が尻拭いさせられるタイプ→高杉さん、西郷さん、以蔵
Bしっかりした姉ばかりで守る相手がいない→乾さん
C幼少時から姉の婿が実家を仕切ってて、自分が守る!と言うとかえって角が立つ→慎ちゃん、桂さん、沖田さん

弟なのでお気楽に我が道を行くタイプ…龍馬さん、土方さん
不明…平助君

こうやって見ると、父親が高齢になってから初めて男の子が生まれたケース(C)がいちばん気苦労が多そうです。
なんか成長後の性格にも、家庭環境って影響してる感じするなあ…。


【直線距離 (ちょくせんきょり)】
主要な地点の直線距離を調べてみたのでメモ

【薩摩・琉球から】
鹿児島→奄美大島 385km
鹿児島→京都 616km
鹿児島→首里(琉球国) 659km
鹿児島→上海(清国) 864km
鹿児島→江戸 961km

首里→上海 827km
首里→台南(清国) 830km

【長州・対馬から】
萩→対馬 196km
萩→釜山(李氏朝鮮) 229km
萩→京都 405km
萩→江戸 769km
萩→上海 993km
萩→ウラジオストク(帝政ロシア) 976km

対馬→釜山 110km

【江戸その他】
江戸→日野 27km
江戸→横浜 28km
江戸→会津 202km
江戸→京都 364km
江戸→箱館 682km

日野→横浜 34km

箱館→ウラジオストク 738km
新潟→ウラジオストク 838km

こうやって見ると長州がなぜ中国よりロシアを気にしていたのか、よくわかるなあ。


【チョコレート (ちょこれーと)】
ご存じの人も多いと思いますが、チョコレートはもともと、ココアのように飲料として飲まれていました。

幕恋の時代には、固形のチョコも作られてはいたものの、苦くてザラザラして、美味しいものではなく、まだまだ薬として飲むという利用法が一般的でした。

日本人が菓子としての固形のチョコに本格的に接したのは、明治6年(1873年)1月21日、岩倉使節団がパリ近郊のチョコレート工場を見学したあたりが、最初のようです。
大久保さん、桂(木戸)さんも、チョコ食べたのかなあ…。

で、その使節団の持ち帰った情報に目を付けたのが、米津風月堂の米津松造(風月堂は積極的に暖簾分けをしてるのでxx風月堂という店がいっぱいある)。
日本で最初にチョコを商品として加工製造・販売をしたのは、この人らしい。
明治11年(1878年)夏にはチョコレートアイスクリームの広告、冬には固形チョコ(貯古齢糖)の広告を出している。

しかし大久保さん、なんかいろんなものの事始めにからんでるなあ…。

ちなみに、明治元年(1868年)に英国のキャドバリー社が、バレンタインデー用に箱入りチョコ詰め合わせを最初に発売したのが、バレンタインチョコの起源という俗説がありますが、肝心のキャドバリー社のホムペの、かなり長い「チョコの歴史」ページに一切記述がないので、どうも眉唾っぽい。


【ちょろけん (ちょろけん)】
幕末期の大坂や京都で、正月に家々を回ってご祝儀をもらって歩いた大道芸。
黒い笠をかぶった巨大な顔の張子姿。相棒の太夫が「ちょろが参じました」と呼ばわり、ささらや太鼓などではやし立てるのに合わせて、こっけいな踊りをした。
正月に門付する大道芸には、三河萬歳や獅子舞など、長い伝統のある芸能が多いが、ちょろけんは芸としては単純で、正月だけのバイトでやっている若者が多く、子どもや若い女性を見かけると脅かしたりしてからかうことも多かったという。

小娘も追っかけ回されて、きゃーとか言って大久保さんの背中に隠れてみたりして。
んで大久保さんがゴッホンと咳払いすると、ちょろけんは「すいまへん…」とか言って逃げてくんだけど、
「おい、祝儀だ。取っておけ」と大久保さん、ぽんと気前よく二朱銀を投げる。
ちょろけんさん、何か知らないけどお気に召したみたいだから、来年もあの娘を脅かしてやろ、と思うのでした。
とかね。


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