用語集

【て】 9件

【寺田屋事件 (てらだやじけん)】
いちおう、このサイトでは、何の説明もなしに「寺田屋事件」という場合、1866年に起きた坂本龍馬襲撃事件のことを指しています。
いちいち断るのが面倒なので、説明はつけていません。

ただし、本来、大久保さんにとってみれば、「寺田屋事件」と言えばその4年前に起きた薩摩藩の尊王派粛清事件のことでしょう。
藩主の父、島津久光公が、寺田屋に集まった藩内の尊王派を同じ薩摩藩士に襲わせた事件です。

大久保さん目線でいうとこの事件は、大久保さんが働きかけて久光公を上洛させた際、その目的は公武合体や幕政改革だったのにもかかわらず、藩内急進派がいよいよ倒幕が始まるんだと勘違いしてものすごく盛り上がってしまい、テロ行為に走ろうとしちゃったことに始まります。
大久保さんは急進派の説得に行くんですが失敗し、その後に久光公が送った鎮撫使との斬り合いなどで9人が亡くなります。
西郷さんも止めに入った側だけど、久光公の劣等感を逆撫でするような言動とかしちゃって、沖永良部島に島送りになります。

そんなこんなで、大久保さんにとって相当トラウマになってる事件であることは間違いないんで、幕恋において大久保さんが一見お気軽に寺田屋を訪問していても、心の中では色々と辛いはず。ま、それを表には絶対出さないのが大久保さんですが。


【天気予報 (てんきよほう)】
大久保√で、ちとイタイ話として、天気予報の話が出てきますが…。

幕恋よりももう少し昔の薩摩の、大隅半島のへんに、天気予報がうまい漁師さんが住んでいた。あんまり天気予報が当たるので、殿様に、日本一天気予報がうまいから「日本どん」って名前をもらった。
なんつーネーミングセンスじゃ。

ある日、殿様は武術大会を鹿児島城でやりたいと思って、日本どんを鹿児島に呼びつけて天気予報をやらせようとした。
でもまあ、太平洋岸の漁村と、湾内にある鹿児島じゃ、天気予報のノウハウも違うわけで…日本どんは困ってしまった。
で、お城に呼ばれたんで、絹の褌を新調して締めて来たら、股の湿り具合がいつもと違うんで占えません、と答えた。殿様は大笑いして許してくれた…という話がある。

そーか、薩摩では褌の湿り具合で天気を占うのか…とつまらんことを考えてしまった。


【天神から飯盛女まで (てんじんからめしもりおんなまで)】
遊女でいちばん格の高いのは上方の場合、太夫、次が天神。
いちばん格下の街娼は、江戸では夜鷹、上方では立君と呼ばれた。

飯盛女は宿場町にいた女郎で、東日本の東海道や中山道などの旅籠に多くいた。
試衛館の近くだと内藤新宿、土方さんの実家の近くだと八王子宿が有名。
西日本の宿場町にも遊女はいたんですが、商売の形態が違うので、飯盛女とは呼ばないようです。

ちょいと疑問に思ったのは、ピンからキリまでと言いたいなら「太夫から夜鷹まで」と言いそうなのに、なぜ「天神から飯盛女まで」なんだろう?
まあ夜鷹を抱いたことがあっても自慢にならないので下は飯盛女でもいいけど。

土方さんは幕恋の3年前、文久3年(1863年)に親戚に出した手紙に、自分に惚れてる女の名前を羅列していますが、その中に島原の花君太夫というのが出てきます。
つーことは…幕恋設定だと、この人とは何もなかったってことなんでしょうか?


【天誅 (てんちゅう)】
幕末期に「天に代って悪人を殺す」意味に使われた言葉。「誅」は悪人を殺すこと。
ちなみに当時「仕置」は死刑のことだったので、幕末志士の皆さんにとって「天誅じゃ!」と「天に代ってお仕置きよ」は同じ意味になります。


【天寧寺 (てんねいじ)】
京都二本松薩摩藩邸のすぐ北にある曹洞宗のお寺。もともとは会津にあったらしい。

曹洞宗総本山である永平寺の貫主(いちばん偉いお坊さん)の臥雲童龍禅師は薩摩の郷士出身なため、島津家と縁が深く、上京時は常に天寧寺で西郷さん、大久保さんと会っていた。
禅師は、自分の太刀の一本を大久保さんに贈っている。(大久保さんがいつも使っていた刀かどうかは不明)

当時の永平寺は朝廷とも関係が深く、禅師の行列には、大名すら道を譲ったと言う。

いやー、お話書いてて大久保さんに感情移入するたびに、幕府軍が大坂から攻めて来たら小娘どこに逃がそう…やっぱ京都の北の方だよねって考えてたんですが…。
こりゃ永平寺で決まりだねっ。
少なくとも幕府の役人より、永平寺の坊さんの方が立場強そうだ。(島津の殿様の言うことは聞きそうだけど)

ちなみに永平寺は長いこと女人禁制だったのですが、幕恋の40年くらい前から、尼僧も入れるようになったらしいっス。
小娘ちゃんの尼僧に化けた姿というのも、想像すると萌える…かな?


【天吹 (てんぷく)】
薩摩の伝統楽器。30cmくらいの小型の尺八だが、音や見た目は南米のケーナの方が似ている。
実際「コンドルが飛んで行く」を吹いても、音色にまったく違和感がない。

武士のたしなみとされ、郷中教育で使われていたので、大久保さん、西郷さんはまず確実に吹ける。
ぐぐったら鹿児島の小学生に教えてる動画があったけど、小さいリコーダーくらいの大きさなので、剣道着姿の男の子が吹いている姿はなかなか可愛い。

なんで郷中教育で教えてたのかなと思ったけど、尺八と同じ原理で吹くから、腹式呼吸が鍛えられるという意見があり、そっかー、なら武芸上達に役立つよねと思った。
この天吹と薩摩琵琶が、薩摩の武士の楽器としてはデフォ。
天吹は琵琶よりとっつきやすい分、伝統曲には二才たちが宴会で作った春歌なんかもあるらしいが、詳しいことは知らない。


【天保の大飢饉 (てんぽうのだいききん)】
天保4年(1833年)から天保10年(1839年)まで7年間にわたって起きた飢饉。
原因は異常気象による不作だが、幕府の対応のまずさなどによって長期化・深刻化した。
被害のいちばん深刻だったのは東北地方。薩摩・長州はこの前に藩政改革をして財政を建て直していたので、被害は軽かった。土佐は南国だが、四国の中ではいちばん貧しかったので、かなり被害が出たようである。

この飢饉の最中に、慎ちゃん、以蔵、半次郎さんが産まれている。
全員、実家では畑仕事してたと思うので、悪天候と不作には困ったはず。
おそらく三人の中で、いちばん影響が大きかったのは慎ちゃん。

慎ちゃんの実家は庄屋…つまり農民から年貢を徴収したり、村のもめごとを解決したりする役目。
慎ちゃんのお父さんは庄屋の中でも土佐随一と尊敬されていた人だそうなので、飢饉に苦しむ農民の負担を減らそうと、近在の庄屋さんたちとは協力していろいろがんばったみたいです。

慎ちゃんは一人息子なので、庄屋の跡継ぎとして、小さいころからお父さんにみっちり教育されました。
慎ちゃん自身も、19才くらいのころに土佐でまた飢饉が起きた時に、走り回って救済資金を集めたり、家老の家の前で一晩座り込んで藩の米蔵を開放してもらったり、大活躍してます。不作時にも農民がお金を稼げるよう、村でユズの栽培も始めました。

慎ちゃん、やるなあ。


【天保山 (てんぽざん)】
甲突川河口付近、西岸に天保山公園がある。

モリソン号事件や翌年の洪水を受けて、1840年代、つまり大久保さんの少年時代に埋め立てが行われ、砲台が置かれた。
また、大規模な軍事調練もここでやるようになった。

ここは錦江湾の入口なので、黒船が攻めて来たら必ずこの付近を通る。
当時の大砲は射程が短いので、さらに湾の入り口を狭くし、黒船を逃がさないようにする必要があったんですね。
また、埋め立て用の土砂は甲突川から浚って、川底を深くすれば、洪水も防げて一石二鳥。

大久保少年も興味があったらしくて、仲間と一緒にここに砲術を習いに行ってます。

その後、藩主になった斉彬公はさらに洋式砲の配備を進めましたが、ここで軍事調練の最中に突然倒れ、亡くなりました。

薩英戦争で最初に英国戦艦に砲撃が行われたのもここ。

天保山公園には龍馬さんの新婚旅行の碑が立ってますが、どうもここで軍艦から降りて薩摩の地に入ったかららしい。
普通の船はもっと城や商業地に近い前浜(今の鹿児島港)に着きます。
龍馬さんは薩摩にとって軍事関係者なんだなあ…と地図を見て思いました。
ま、小松さんや吉井さん家に行くならこっちの方が近いってのもあるけどね。


【天文館 (てんもんかん)】
鹿児島市の繁華街の名前。
1779年(安永8年)の桜島噴火直後に、ここに明時館という施設ができ、天文観測をし、暦を作っていた。
江戸時代後期、暦は全国統一されていたが、薩摩だけは、幕府の作った暦を使わず、薩摩暦という藩独自のものを使っていた。
薩摩暦はあまり残ってないので詳細は不明だけれど、農暦(いつ種まきすべきか、天候に気を付けるべきなのはいつか、などが書かれたもの)に近い内容も書かれている。
ま、大久保√の大久保さんが個人で天気予報しなくても、藩の施設で専門に研究してた人はいるらしいってこってす。

あともうひとつ気になるのが、大久保さんの誕生日の文政13年8月10日だけど…。
おそらくこれって薩摩暦の日付だよね?いわゆる「旧暦」つまり幕府の決めた天保暦でも、同じ日なのかな?
調べたけど結局わかりませんでした。

また、明時館で特に大事だったのは、時刻を決める仕事。
昔の時刻は、日の入りと日の出に合せて長さが変わった。
薩摩は日本の西南端なので、京都や江戸とは太陽の出る時刻がかなり違う。そのため、独自に太陽を観測して、江戸とは違う時刻の設定をしていたそうです。



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