用語集

【い】 14件

【イカルス号事件 (いかるすごうじけん)】
慶応3年(1867年)7月6日、長崎でイギリス人水夫2名が殺された事件。
英国公使パークスは犯人が海援隊ではないかと疑い、軍艦で土佐まで追いかけて来た。
土佐に外国の軍艦が来るのは初めて。しかも乾さんが部隊率いて闘うぞーとかやってるし、高知の住民の方々はあわや生麦事件→薩英戦争の二の舞か?お城に大砲の弾が飛んで来るのか?とあわてまくったと思われる。
幸い、鹿児島と違って高知は湾の入口がせまく、そこで英国艦を引きとめられたので、高知城下が射程内に入ることはなかった。で、後藤さんが断固とした態度で英国公使と交渉し、とりあえず長崎までお引き取りいただいたわけです。

龍馬さんは海援隊の責任者だったので、この事件で自分は死ぬかも?と思ったらしい。土佐の重役に宛てた手紙に、「もし自分が戦死しても、西郷さんと大久保一翁さんさえ墓に花を供えてくれたらきっと成仏します。この二人には必ず使いを出してください。二人が来ないと嘆き死にます」と書いている。(戦死したら嘆き死ねないんじゃないだろか)

この時すでに龍馬さんは西郷さんに大政奉還の話はしている。けど、その程度でゆらぐような友情ではなかったっつーことが、この手紙からわかる。


【いけん (いけん)】
どうでもいい話ですが…。
「いけん」という方言の意味。

薩摩弁「どう、いかに」
長州弁「だめ、よくない」
多摩弁「行くことができない」

土佐は不明。

薩長同盟の話し合いで、お互いの方言を使った場合、
薩摩「いけんな(どうだろうか)」
長州「いけんとは何じゃ!(ダメとは何だ)」
と、ケンカになりそうな気がする。

史実の方の薩長同盟は、西郷さん、桂さん、龍馬さんで話し合ったけど、3人とも自藩の志士の中では江戸暮らしの長かった人。
やっぱりその方が、話が通じるという人選だったんだろうか。


【囲碁 (いご)】
大久保さんの唯一の趣味。
少年時代からの趣味で、常に碁石を持ち歩いて、暇があれば詰碁してるくらい好きだったらしい。

斉彬公死後の安政の大獄のころ、西郷さんも大島に流されて、前途真っ暗だったころの話。大久保さん、仲間たちが仇として憎んでいた久光公に近づこうと考える。

大久保さんの計画。

1.久光の碁敵の和尚さんに碁を習い始める。
2.久光嫌いの友達を説得し、久光の読みたがっていた本を借りる。
3.その本(全37巻)を和尚さん経由で1冊ずつ貸す。
4.その時にさりげなく、情勢に関する見解など、久光公が知りたそうな情報をはさむ。

これがうまく行って、久光公、大久保とは誰だと興味を持ち、その後謁見して側近として使うようになります。

目標のためなら、敵味方とか過去の遺恨とか気にせず、あらゆる手段で実現しようとする大久保さんの性格が、よく出ているエピソードです。

その後、久光公は大久保さんにしょっちゅう碁の相手をさせるようになるのですが、面白いのが、そこまで気に入られた理由。
大久保さんは他の家来と違ってお追従碁ができなくて、久光公相手にすごいムキになって勝とうとするから、だそうです。
碁を利用して久光公に近づこうとしたのに…そういう態度でいいのか?
ただまあ当時の史料を見ると久光公は相当強いみたいなんで、大久保さんは本気出しても結局負けてたっぽいです。


【一蔵 (いちぞう)】
本来なら、大久保さんが呼ばれているべき下の名前。

まあ、以蔵と紛らわしいし、一さんだと新選組の誰かっぽいから、利通でも仕方ないんですけどね。

しかし、小娘に利通さんとか、西郷さんに利通とか呼ばせるには…なんとなく心理的抵抗が…。固すぎるんだもん。

ちなみに細かく言うと、幼名が大久保正袈裟(しょうけさ)で、14才で元服した時の名前が、大久保正助利済(としさだ)で、その後島津の殿様との関係で大久保一蔵利通になりました。

(薩摩藩には島津家と同じ字を名前に使ってはいけないという決まりがあった。久光の息子が久済という名前になったので、済の字が使えなくなった。)


で、利通は諱(いみな)なんで江戸時代にはふつう使わない名前だったんだけど、明治に入ってすぐに下の名前を複数使うことが禁止されたので、一蔵を使うのを止めて、大久保利通で行くことにしたわけです。


【一人称 (いちにんしょう)】
ご存知かとは思いますが、幕恋キャラの一人称は

大久保さん…私
龍馬さん…ワシ
高杉さん…俺
武市さん…僕
以蔵…俺
慎ちゃん…おれ
桂さん…私
沖田さん…僕
土方さん…俺
乾さん…俺
平助君…オレ

である。(漢字カナ表記は時々ゆれる)

んで史実の方はどうだったかというと、長州の志士の間では「僕」が流行っていた。
昔よりは少なくなったけど、今でも政治家には「僕」を使う人がわりと多い。

面白いのはリアル半次郎も「僕」である。
リアル大久保の一人称は多すぎて一定しないが「僕」を使った形跡はない。西郷さんも同じ。
半次郎さんが薩摩の中でも特に長州に近い人だったんだなというのが、これだけでもわかる。

大久保さんでちょっといいなと思うのが、西郷さんへの手紙では自分を「愚弟」、西郷さんを「貴兄」と呼ぶこと。
二人の関係がなんとなくわかる。
大久保さんが幕末に書いたもので割と多いのは「拙者」。え、江戸時代だなあ…。

龍馬さんは「私」が多い。ただし後藤さんなど土佐藩内で身分が上の相手には「小弟」を使っている。


【一力亭 (いちりきてい)】
ここのサイトの小娘のデフォルト名の杉浦ゆうは、リアル大久保の京都妻の名前ですが…。
リアルのおゆうさんは、祇園のお茶屋(芸妓が接待するお座敷)「一力亭」の主人の娘でした。
この一力亭は今でも京都にあって、もっとも格式の高い店と言われています。

そのサイトで以前トップに使っていた写真↓

これは、明治初めのもので、大久保さんが通っていた時代より少し後のものではありますが、幕末の建物が比較的まだ残っていた時期の写真です。
一力亭はどの建物かいまいちはっきりしませんが、道の奥の左側にあるはず。

その手前の望楼のある建物は、おゆうさんのお父さんが、茶屋の主人と兼業で、校長をやっていた小学校です。
(この学校は2011年に廃校になりました)

ちなみにそのお向かい、つまり道の奥の右手には、西郷さんがご執心だったお虎さんという女性が仲居をしていた奈良富というお店がありました。

西郷さん好みの太った大柄の女性だったため、お虎さんには豚姫というあだ名がつけられていました。ちょいと失礼な命名ですが、ご本人は豪快な性格で、気にしてなかったみたいです。


【一反木綿 (いったんもめん)】
薩摩の妖怪。
白い大きな布の妖怪で、夜などに、人を襲ってぐるぐる巻きにして殺すと言われている。

薩摩藩では、子どもが夕方遊んでいて、なかなか家に帰らないと、一反木綿が出て憑り殺されるよなどと言われたらしいです。

「ゲゲゲの女房」では、水木しげるが、奥さんは一反木綿に似ていると嬉しそうに言いながら、よくわからない愛情表現をするシーンが何回か出てくる。


【一刻 (いっとき)】
このサイトでは、時刻をあらわすのに「刻」を単位にしてます。
一刻は約二時間(季節によって変わる)。半刻は約一時間。四半刻は約三十分。
時代劇好きな人なら、慣れ親しんでる時間の単位ですよね。

小娘としては現代のように時間の単位を「一時間」と書きたいとこですが、いつもケータイの電源を入れているわけにもいかないので、時刻がわからない。だから、この時代に合わせるしかない。
それに、一刻ごとに町のあちこちで鐘(または太鼓)が鳴るので、非常にわかりやすい。

でも、国語の辞書見てびっくりした。一刻(いっこく)=30分って書いてある!
で、調べてみました。

簡単に言うと、江戸時代、民間で使用されていた時刻の単位では、一刻(いっとき)=約2時間で正解。

一刻(いっこく)=30分は奈良か平安あたりに決められた話で、たぶん江戸時代でも学者さんなど限られた人は使ってたらしい。
要は、小娘の接するような人たちの間では、一刻(いっとき)=約2時間がふつうということです。


ちなみに一刻(いっとき)=約2時間、と「約」が付くのは、日の出から日の入りまでの時間を6等分して一刻としているので、夏と冬じゃ長さが違うから。

ややこしいなあ…。

ただ、今と違って太陽が出ている間に用事を片づけることが大事だったので、こっちの方が皆には便利だったんです。
ヾ(=;´ ェ `A


【従兄弟 (いとこ)】
幕恋では大久保さんは独身という設定なので、小娘と結婚して男の子が生まれなかった場合、大久保家は誰が継ぐかという問題が発生する。

調べた範囲では、大久保さんには一人だけ男のいとこがいる。
利貞君、20才。大久保さんのお父さんの二番目の兄の子どもらしい。
幕末に何してたかは不明。

うーむ…。また小娘にお似合いの年の人が出てきてしまった。
いとこだから、大久保さん似かな。
外見が同じで、性格がむちゃくちゃ素直でいい人だったら、面白いかもしれない。

大久保さんに叱られて小娘がしょげてると、やさしく慰めてくれる利貞君。
小娘、大久保さんと顔同じだから思わずじーっと見ちゃうと、
「お前ら、何やっとるかっ」
と怒り出す大久保さん、とかね。
ややこしいなあ。

…って、何を想像しているんだ。


【乾さん (いぬいさん)】
乾さんこと板垣退助は、1837年生まれの上士。
幕恋のころは29才。武市さんの8才下。慎ちゃんの1才上。

この人の幕末ごろの動きって、あまり知られていないので、ちょっと調べてみた。
そしたら…。

乾さん、幕恋の年(1866年)には京都にいないΣ(=ノ° ェ °=)ノ!

乾さんはもともと思想が土佐勤王党に近くて、藩内で武市さんを重く用いるべきだと主張してた。
前の年、武市さんが藩に捕縛されてた時、乾さんは大監察という尋問役の一人だったんですけど、容堂公に逆らって刑を軽くすべきだと主張したんでクビになっちゃった。
なんで、幕恋のころは仕事ないから江戸に遊学に出て、西洋式兵学とか騎兵術を勉強してた。
幕恋の後半あたりでようやく土佐藩の役職に復帰し、慎ちゃんや西郷さんと連絡を取って、倒幕のための薩土密約を交わす。

要するに、実は思い切り、武市さんたちの味方なんですよねえ…。

ただまあ、幼馴染の後藤さんへの態度を見ると、好意のある相手にはイジワルなことを言う人ではあるらしい。
幕恋設定だと上士だから下士につらく当たるってことになってますが、この人、上士や容堂公相手でも態度はでかい。ある意味、平等に接してると言えます。

生涯に正妻4人、妾4人以上持ってたので女性好きだったのは確か。
愛用ブランドはルイヴィトンで、カバンが現存しています。


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