用語集

【と】 10件

【トイレの神様 (といれのかみさま)】
歌手、植村花菜さんのヒット曲で、トイレにはきれいな女神さまがいて、きれいに掃除すると美人にしてくれるという話ですが…。

最初に聞いた時、大阪の話にしては民俗学的になんか違和感あるなあ…と思っていたら、歌に出てくるおばあちゃんは沖永良部島出身でした。トイレの女神様の話は、沖永良部島の一部に伝わる民間伝承だったんですね。

で、この方、大久保さんのお父さんが沖永良部島で島役人やってた時に、島の女性に産ませた娘の子孫です。

つーことはまあ、大久保さんや妹たちも、お父さんにトイレ(薩摩弁だと「まなか」とか「おちょずい」とか言うらしい)をきれいに掃除しろと言われてた可能性はありますね。

大久保さんが美形なのは、ちゃんとトイレ掃除をしたから…とか、そんなわけはないっスけど。


【東京 (とうきょう)】
小娘の出身地。
江戸を東京という名前に変えるように建白書を書いたのは、大久保さん。


【闘犬 (とうけん)】
乾さんの趣味のひとつ。
小さいころからやっていた。
というか、子どものころは、武術に相撲にケンカに闘犬と、とにかく「力の勝負!」的な遊びしかしなかったらしい。

当時の土佐闘犬のワンちゃんは、今のようなブルドッグつかマスティフっぽい顔じゃなくて、三角耳の立った日本犬だった。
今でもこの犬種は四国犬という名前で残っている。
西郷さんが慎ちゃんにつけた仇名の「土佐犬」はこっちの四国犬のこと。

今の土佐闘犬は、幕末のかなり早い時期から、闘犬好きの皆さんが外国犬を入手して交配し、品種改良していったもの。
岩崎弥太郎もブルテリアを輸入したりしている。

ところで幕末・明治の横浜・江戸周辺では外国犬のことをカメと呼んだ。
語源にはいろんな説があり、英語で犬を呼ぶCome hereを「カメや」と間違えたんだとか、よく噛むからだとか、東北や四国の方言だとかと言われている。

西郷さんも犬好きだったけど和犬派なので、乾さんと犬論議したら二人とも譲らずに大紛糾しそうだ。


【東福寺即宗院 (とうふくじそくしゅいん)】
京都東山にある薩摩の菩提寺。
薩摩藩士が京都で亡くなると、通常はここに葬られた。
幕末で有名な人だと、人斬り新兵衛こと田中新兵衛(1863年没)の墓もここにある。
寺田屋騒動(1862年)の鎮撫側の唯一の死者、道島五郎兵衛の墓もここ。
あとは、大久保さんの幼馴染の奈良原喜左衛門(1865年没)。この人は生麦事件でイギリス人に最初に斬りかかった人。薩英戦争のスイカ売り決死隊の言いだしっぺでもある。だいたい海江田信義(有村俊斎)とペアで動いていて、いつも過激な行動で大久保さんを翻弄しまくってたお方。

ここには幕末ごろ、「採薪亭」という茶室があって、西郷さんと月照さんが幕府に追われて隠れ、井伊直弼ら幕府方に対抗する活動について話し合ったり、指令を飛ばしたりしたそうである。

東福寺はもみじの名所で、境内のあちこちで見事な紅葉が見られる。
伏見藩邸からだと歩いて一時間くらい。伏見稲荷のちょっと北。川舟でも行ける。

つまり、小娘と大久保さんがもみじ狩りに行くなら、比較的近場でお手ごろだし、薩摩藩は顔が利く。二人っきりで過ごせる茶室もあるというデートにはうってつけのお寺なのだ。


【利済 (としさだ)】
大久保さんが元服してから慶応元年一月(幕恋の1年前)まで使っていた諱(いみな)。つまり本名。
通称の方はこの間に正助から一蔵に変わる。

大久保家の男は代々、大久保利ナントカという名前が付けられ、今に至る(妾の子と養子に出た子を除く)。
この利の字を通字という。

大久保さんのお父さんの利世さんがなぜ済の字を選んだのか、トシナリやトシズミでなくトシサダという読みにした理由は、などは伝わっていない。
ただ、西郷さん曰く利世さんは加治屋町界隈ではいちばんの漢学者なので、何か深い意味があるはず。

調べてみると、済をナリやスミと読むと、決済や完済の済のように借金を払うとか終わらせるという意味になる。
済の本来の意味は、物がでこぼこのないように整った様子のこと。特に水量の過不足を補って揃えることを言う。
そこから借金をゼロにするという意味が派生したんだろうけど、利世さんはそっちの意味にしたくなかったようである。

済のもうひとつの意味は、救済の済。物事を平等に整え、貧しい者に足りない物を与えて助けること。
それも一時しのぎやその場限りではなく、政治経済などの仕組みを整えて世の中を良くして、皆を救うことです(経済にも済の字があるしね)。
世の中の仕組みを定めるからサダ、って読みなのかな。

つまり利世さん、一人息子に世を救えという名前をつけたわけだ。


【トシドン (としどん)】
甑島(鹿児島県薩摩川内市)に伝わる妖怪。
利通どんの略ではない。

薩摩版ナマハゲのようなもので、大晦日になると首なし馬に乗って現れ、子どもたちが一年間した悪い行いを叱って歩く。最後に、よい行いをほめて、トシモチ(年餅)を置いていく。

見た目はやっぱり南洋風の、鼻の長い派手な原色の仮面で、藁ミノにシュロやソテツの葉などを挿している。

ユネスコの無形文化遺産。

甑島限定なので、大久保さんとの接点はないけど…。
誰かに「利どん」と呼ばれたら、ムカッとしながら「私は妖怪ではない」とか言いそうな気はする。

それに、さんざひとの失敗を叱りつけておいて、最後にちょっとだけ優しくなるあたりの行動パターンはそっくりである。(小娘限定だけど)

やっぱ妖怪っぽいとこあんですかね、この人。


【富岡製糸場 (とみおかせいしじょう)】
今年6月に世界遺産に登録される富岡製糸場(群馬県)は、大久保さんの殖産興業政策の下で明治5年(1872年)に作られた国営工場。日本で初めて蒸気式の繰糸器などが使われた。

製糸工場の女工というと「女工哀史」とか言って劣悪な労働環境というイメージがあるが、富岡製糸工場の場合は正反対。士族を中心に優秀な若い女性を選抜して、製糸業の実地教育をした後、地元に戻って各地の民営製糸工場の指導者になってもらうのが目的の施設なので、当時の女性労働者としては破格に待遇がよかった。いわばキャリア女性の走りですね。
イメージアップのため、前年には皇后陛下も宮中で養蚕を始めた。今でも美智子様はカイコ飼ってます。

ただまあ…鉄道でも製糸でも蒸気機関のそばで働くのって、暑かったりうるさかったりしてしんどいし、繭から糸を取るってかなり神経使う上に単純労働だし、待遇がよくてもあまり女工さんはいつかなかったらしい。

他にも大久保さんは士族家族を中心にした開拓地とか、いろいろ事業やってるけど、当時にしては相当待遇いいのに、士族の皆さんからは文句ばかり出て働いてくれなくて失敗…というケースが多い。これで士族の恨み買ってたら割に合わないよなあ。

もし小娘が頬をふくらませてそう言ったら、大久保さんは
「ふん、慣れとる」
とか言って、淡々とお仕事を続けちゃうんだろけどね。


【富山の売薬 (とやまのばいやく)】
薩摩藩はもともと超貧乏な藩だったんだけど、大久保さんが子どものころ、琉球を通じた密貿易で財政を立て直す。でも、1850年のお由羅騒動の時、斉彬派が密輸の事実を幕府にばらしたせいで大騒ぎになる。
琉球館附役だった大久保さんのお父さんが遠島になったのも、たぶん関係ある気がするけど、よくわからん。

この密貿易、中国に昆布を売り、中国から漢方薬の材料などを買っていたらしい。
で、薩摩に昆布を運び、薬種を買って行ったのが、富山藩の薬売りたち。
彼らは薩摩組という組織を作り、北前船を仕立てて、北海道から薩摩まで昆布を運び、薩摩の薬種商木村与兵衛を通じて薩摩藩と取引してた。
ついでに全国で薬を売り回って得た情報も、薩摩藩に教えてたらしい。

密輸って薩摩藩だけでこっそりやってる商売かと思ったら、日本全国を巻き込んだ犯罪だったんですね。
これじゃ簡単に止められないよなあ。

富山の薬売りと言えば、子どもにおみやげの紙風船くれるので有名だけど、配り始めたのは明治末期らしいので、このサイトのお話とは無関係。


【土陽新聞 (どようしんぶん)】
乾さんなど土佐の自由民権活動家が作った政治団体「立志社」の出してた新聞のひとつ。
現在の高知新聞。

明治16年(1883年)に編集長の坂崎紫瀾が龍馬さんを主人公にした小説「汗血千里駒」を連載する。
当時の人気画家が挿絵をつけたこともあり、全国的にヒットする。

政治団体の機関紙に連載されたことからもわかるように、薩長派閥の多い中央政府に対して、土佐も維新では活躍したと主張するために書かれた小説。
小説なので創作部分も多いが、後の世にすべてが史実であるかのように語られることになる。
というか、当時、特に四国では歴史を正確に伝えなければいけないという意識はなく、政治的主張を大衆にわかりやすく伝えるための手段として、歴史講談や小説などが積極的に利用された。

その後も龍馬さんは、大正デモクラシーの時代には平和革命論者、マルクス史観全盛の時代には差別される郷士の英雄など、いろいろなイメージを付けられながら何度も政治的主張に利用され、現在の龍馬像が形作られていった。
ある意味、時代時代の民衆の願望がすべて詰まったような存在なので、龍馬人気が高いのも当然なのです。


【どんどん焼け (どんどんやけ)】
1864年の禁門の変で、長州藩邸や堺町御門から出た火が燃え広がり、2万7000世帯が焼けた火事。

ただし三条の長州藩邸付近はそれほど被害地域が大きくなく、御所の南側が広範に焼けている。
このため、後者で戦った会津藩が京都の民衆にいちばん恨まれることになった。その余波で、新選組もけっこう恨まれている。
この時、沖田さんは体調不良で戦闘には参加してないので、たぶん真相は知らない。でも「新選組が火をつけた」という噂があったことは、知ってたはず。

薩摩はそのへんちゃっかりしている。長州藩邸の火をさっさと消し止めると、小松さんの指揮で蔵から米を持ち出して炊き出しを行ったので、住民からはあまり反感を買わなかった。

大久保さんはこの時、鹿児島で藩政改革に専念していたので、京都にいなかった。戦ったのは西郷さんや小松さん。半次郎さんもいた。
ただまあ、この時の出火の原因になった大砲の入手など、薩摩の軍備増強には大久保さんはかなり関与しているので、まったく罪が無いってわけではないけどね。

幕恋の序幕、現代のシーンで出てくる東本願寺はこの火事で全焼し、明治後期まで再建されない。
一方で例の神社は、幕末では新築っぽいという設定なので、どさくさに紛れて焼け跡に建てられたんスかね?



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