用語集

【な】 9件

【長崎 (ながさき)】
なぜ幕末志士は、西洋の品を買い付けに長崎に行くのか?
前々から疑問だったので、調べてみました。

幕恋当時の1866年の貿易取扱額は横浜が全国の80%、長崎は19%でした。
また、西洋風の品物を入手するにしても、長崎は商館が輸入した品をただ売っていただけなのに対し、当時すでに人口2万人を優に超えていた横浜では、外国人の職人もいて、注文に応じた加工や修理が可能だった。つまり、一般の商人は、舶来品の買い付けには迷わず横浜に行きます。

ではなぜ、龍馬さんたち志士は長崎に行くのか。

ところで、輸入額だけを見ると、横浜74%、長崎25%と、少し金額の差が縮まっている。
もともと幕末日本は輸入超過なのですが、長崎は輸入額が輸出額のほぼ5倍。ほとんど輸入一辺倒の港だったんですね。
で、何を輸入していたかというと、その41%が艦船と小銃。要するに軍事物資です。

つまり、当時、海外と貿易をするのに、主に横浜でなく長崎に行くということは、武器を主に取引するという意味だったわけです。だから、志士は長崎に行く。

うーん…数字で見るとシビアだなあ…。
ヾ(=;´ ェ `A


【長羽織 (ながばおり)】
長めの派手な羽織。

男性の場合、基本的に、明るい色の長羽織は、自分のことを二枚目だと思っている奴しか着ない。まあ、普通は大店の若旦那が着るものである。

これを着ていると、一般的に他の男性からは、やにさがった気取り屋で女好きの嫌な奴と思われる。

ましてや若旦那でなく武士なんぞが着たら…。
超鼻持ちならないオレ様だと自分で言っているようなものである。


【長屋塀 (ながやべい)】
↓はベアトさんが江戸の薩摩藩邸を撮ったという写真(近所の別の藩邸と間違えたという説もある)

幕恋の長州藩邸の絵と比べると、明らかに違うのが、塀が羽目板で補強され、ずらりと格子窓が並んでいること。

実はこの塀の中には、平藩士さんたちの住む長屋がある。
上の屋根の大きさから見て、かなり狭い部屋だったみたいだけど。
しかも、小さいはめ殺しの格子窓しかないんじゃ、ほとんど見た目は牢屋…いやいや。

なぜ窓がこんなに小さいかというと、狭間(銃眼)を兼ねているから。
藩邸が攻められた時に、ここに住んでる藩士さん達はそれぞれ銃を構えてここから敵を狙い撃つ仕掛け。
つまり最初から幕府と戦うことを想定して作られている物騒な建物なのだ。

ただしこの窓、ふだんはまったく別の用途に使われる。
なにしろ住んでるのは、ほとんど独身男か単身赴任。自炊設備はあっても使わない連中が多い。
昼になると弁当売りがやって来て、窓の隙間から売り買いする。夜には屋台が熱燗とおつまみを売りに来る。

藩邸の皆さんが買い物に行かなくてもしょっちゅう飲んで騒げるのは、そういう理由だったんですね。


【ななとこ祝い (ななとこいわい)】
ななとこさん、ななとこ参りとも言う。
ななとこは七所または七草と書く。
数え年で七才になった子どもが、正月七日に近所の家を七軒回って七草を入れた雑炊をもらって歩く行事。
今でも旧薩摩藩地域(鹿児島県・宮崎県)では七五三の代わりに行われている。

ふつうは晴れ着で神社にお参りした後で、親か兄弟に連れられて一緒に回るらしい。
七草雑炊(ななとこずし)は各家庭でレシピが違い、一般的な七草粥と違い、根菜や丸もちなどが入っていてうまそうである。
宮崎だと鶏肉も入っている所が多い。
「ずし」は「ぞうすい」の訛りで寿司のことではない。

明治初めにやってた記録があるんで、たぶん大久保さんもやったと思うけど、高麗町と加治屋町のどっちでやったんかな?
七才の正月はふつう郷中に通い始める時期だし、たぶんこの時期にはお父さんの沖永良部島赴任は決まっていると思うので、お父さんに連れられて留守の間息子をよろしくと加治屋町の家々を回ったんじゃないかなーと想像します。


【奈半利川 (なはりがわ)】
慎ちゃんの生まれた北川郷を流れる川。

江戸時代から、上流の魚梁瀬(やなせ)地区の杉の質の良さで有名で、河口の奈半利港は材木の積み出しや漁業の拠点として栄えた。

魚梁瀬という名が示す通り、川魚が大量に獲れ、特にアユは美味。ハゼやチチブなどの小魚も豊富で、地元では串焼きや甘露煮などにして食べる。
慎ちゃんが栽培を奨励したユズは、商品作物として売るだけでなく、飢饉対策として川魚の保存に使うという目的もあった。


【波平行安 (なみのひらゆきやす)】
平安時代から明治まで薩摩の南で代々名刀を作っていた刀鍛冶。
半次郎さんの愛刀。

ある日、人に見せられて一目ぼれしたけど金が無かった。でも諦めきれないで頼み込み、何年もかけて代金を払ったらしい。

「鋒鋩雪のごとく、光彩陸離として秋水まさにほとばしらんとす」
(切っ先は雪のように白く、まばゆいばかりに輝いて、一点のくもりもなかった)
てな描写がある。

薩摩の刀なんで、古風な太刀。
ものすごく長くて、かなり目立ったらしい。


【なんこ (なんこ)】
薩摩の酒席の遊び。
10cmくらいの箸型の「なんこ珠」を使う。

二人で向かい合って、手の中になんこ珠を0〜3本隠し持ち、互いの持っている本数の合計を当てる。
負けた方が焼酎を飲む。

西郷さんが好きだったが、酒に弱いので負けるとたいへんだったらしい。
iPhoneをお持ちの方はiNankoという無料アプリがあるそうなので、お試しあれ。

島津義弘の朝鮮出兵時に薩摩に伝わったという説がある。ただし、同じルールの遊びは江戸時代、全国各地にあった。
薩摩以外では、一文銭や碁石など、手に隠し持つものにはいろいろなバラエティがあった。


【南島雑話 (なんとうざつわ)】
1850年のお由羅騒動で奄美大島に流罪になった名越左源太が、1852年に嶋中絵図書調方に命じられて、島の習俗や自然などについて記録した本。
流罪を許されて帰る1855年まで、執筆された。

この名越さんの流刑期間は、大久保さんのお父さんと同じ。ただし大久保利世さんの流されたのは喜界島だけど。

この流刑で非常に不思議なのは、お由羅騒動で利世さんたちが味方した斉彬公は、1851年に藩主になっているにも関わらず、1855年まで流刑が解かれないこと。
息子の大久保さんも、そのころまでは藩内でいないも同然の扱いを受けている。西郷さんが斉彬公に抜擢されて、志士として華やかなスタートを切るのとは正反対。

斉彬公、自分に味方してくれた家臣を、4年間も島流しにしたまま放っておくってあんまりじゃね?と私は思ってたんだけど…。

当時の奄美諸島は薩摩藩の主要財源である砂糖の生産地。
しかし本土から遠いため、教育を受けた人材が少ない。
鹿児島で藩務経験がある人が流されてきてちょうどいいと、利世さんも、何かお仕事命じられていたのかな?


【南北戦争 (なんぼくせんそう)】
日本が開国したのは、アメリカのペリーによる黒船来航だったというのは、よく知られている。
でも実際に幕末に日本と関係の深かったのは、薩長を後押ししたイギリスと、幕府と関係の深かったフランス。
アメリカはどうしちゃったのか。
答えは簡単。
南北戦争(1861〜1865年)が始まってしまったので、日本どころではなくなってしまったのである。
ただ、この南北戦争自体は、日本の幕末とある意味で非常に関係が深い。
第一に、幕恋の時代、1866年には、南北戦争終結で武器が米国で売れなくなったり、大量に中古の銃が余っていて、外国商人は日本でいかに大量に売るかを考えていた。だから、薩長同盟であれだけ大量の銃を、極東の日本であれだけ調達できたわけですね。
また、南北戦争は、依然農業主体だった南部と、工業化の進んだ北部との戦いだけど、これは日本も同じ。
米本位制から抜け切れなかった佐幕諸藩と、いち早く商品経済で藩財政を立て直していた薩長他との戦いでもあるわけです。



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