用語集

【は】 9件

【鋼 (はがね)】
鉄の炭素量を減らすことで、強度を高めた合金。
鋼自体は古来からあったが、手間と費用がかかるため、大きな建造物には使えなかった。
1856年にベッセマーが転炉を発明して初めて、船や橋などに鋼を使えるようになる。

これが何で大久保さんと関係あるかというと…。
薩摩藩が外国からごく初期に輸入した蒸気船にファイアリクロス号というのがある。1855年に作られた鉄製のスクリュー船。
当時の蒸気船は木造外輪船が主流だったから、最新技術を駆使した船ということで高値で購入した。
だけど1855年製造じゃ、まともな鋼が使われているわけがない。薩摩藩はまだ蒸気船に詳しくなかったから、足元見られて欠陥船を売りつけられたんですな。

案の定、買ってわずか半年後、大久保さんたちを乗せた船は明石沖で沈没する。
人間は助かったけど、船の方はもろすぎて、グジャグジャになって岩礁にめり込んでたから、当時の技術では引き上げることもできなかった。

しかし世間はそんな技術的問題など知らない。しかも当時は空前の怪談ブーム。
事故が寺田屋騒動の翌年だったこともあり、あれはたたりだという噂が立ってしまった。
大久保さんにとっては、踏んだり蹴ったりな話なのでございます。

ちなみにこの英語船名、後に米国でKKKが有色人種襲撃の合図に使った「炎の十字架」の意味。もうむちゃくちゃ縁起悪いっス。


【初詣 (はつもうで)】
志士の皆さんはお正月に初詣をしたか?
調べてみたんですけど、正確にはわかりませんでした。大久保さんの日記はお仕事メモなんで正月休みに何したかは書いてないし。

今のような初詣の習慣が始まったのは、明治中ごろ。電車で有名な神社や寺に行けるようになってから。

江戸の場合、庶民は大晦日の深夜まで、借金取りの相手や、餅の購入や髪結いなど正月の準備に忙しいんで、元日は疲れ果てて初詣どころじゃない。
武士は元旦はお城に行って年賀行事に出た後、年始参りに回る。今なら年賀状を出すだけだが、昔は一軒一軒あいさつ回りをした。こっちも初詣どころではない。

諸藩の場合、正月の迎え方は地方差がありすぎて、わけわからん。

鹿児島では正月に五社参りといって、お城の鬼門にある神社5つ(南方神社・八坂神社・稲荷神社・春日神社・若宮神社)を回る。
藩主様自ら参拝するので、御側役の大久保さんがついていかないわけはない。
郷中の子どもたちも二才たちに引率されてお参りする。
つーことで少なくとも大久保さんには初詣の習慣はあるようである。

土方さんは近藤さんと手分けして年始回りに忙しい気がする。
幕恋設定だと龍馬さんや武市さんは寺田屋その他にツケが貯まってるので、大晦日は帳面持った小僧さんたちに追いかけられてたりして。


【浜詰と夕日ヶ浦 (はまづめとゆうひがうら)】
大久保√や龍馬√などに出てくる海岸。
いったいどこの風景だろうと思っていたら、ほぼそっくりな場所を見つけた。

京都府京丹後市網野町にある浜詰海岸と夕日ヶ浦。


≪出典:京丹後市≫

ちなみに砂浜の所が浜詰海水浴場で、緑の半島部分が夕日ヶ浦。
日本夕日百選に入っている景色のよい場所である。

この海岸のある丹後地方は、京都の北端にあり、古代に大陸から帰化人が多く渡来した場所。
そのため、この地方の伝説には、浦島太郎や天女の羽衣伝説など異世界から来た人の話が多い。

近くの木津温泉はシラサギが傷をいやしているのを見て発見されたと言われ、京都府でいちばん古い温泉。


【浜寺公園 (はまでらこうえん)】
大阪にある日本最古の公立公園。

浜寺は万葉時代から詩歌に詠まれていた景勝地だったが、明治になって宅地開発のために松林が伐採されることになった。

明治6年、内務卿になったばかりの大久保さんが、たまたま休暇で訪れて、半分以上切り倒された松を見て、その無残な光景に

音に聞く 高師の浜のはま松も 世のあだ波は のがれざりけり

と、即興で和歌を詠んだ。

で、歴史ある松林を守れという声が高くなって、浜寺は公立公園に指定され、松林は復旧されました。
自然保護運動の走りですな。

大久保さん、洋行先のイギリスでトラスト運動でも見たんでしょうか。

ちなみにこの時の堺県令で伐採の責任者だった税所篤さんは、大久保さんの昔からの友人で、精忠組にも発足当時から加わっている。

この人に限った話じゃないですが、大久保さんの昔の友達は血気にはやって突っ走りすぎる傾向がある。薩摩兵児はメンツにこだわるから、正面から正論で反対すると意固地になる。
なもんで、大久保さんが旧友の暴走を説得して止めさせたエピソードって、この話のように和歌を使ったり、おみくじを使ったりして、相手を煙にまき、冷静にさせるというパターンが多い。
勝手知ったる間柄だから、こんな手段に出たんですね。


【破免毛見法 (はめんけみほう)】
年貢の取り方には大ざっぱに2通りある。

@検見法(けみほう)…収穫の一定の割合を年貢として取る。4割が年貢だとすると、12斗穫れれば4.8斗、8斗穫れれば3.2斗と、不作の時ほど年貢が軽い。(薩摩では検見法を毛見法と書いた)
A定免法(じょうめんほう)…収穫高に関わらず同じ量を年貢に取る。4斗が年貢とすると、豊作で12斗穫れれば8斗手元に残るが、不作で8斗しか穫れない年は4斗しか残らない。

理屈で考えると、土地がやせて不作の年が多い薩摩の農民にとっては、不作の時に負担の軽い@の方がいいように見える。
しかし藩にとっては、@は不作の時に収入が下がるだけでなく、毎年の収穫量の確認に膨大な人件費がかかる。
そのため、薩摩藩では調所広郷の財政改革のころに検見法から定免法に切り替えた。

財政改革のおかげで、破産寸前だった薩摩藩はなんとか立ち直るが、農村では逃散(ちょうさん)と言って農民が領地から脱走してしまう問題が頻発した。
ただ、定免法にも一応救済策はあって、郡方の役人から届け出があれば、藩が検地を行い、不作と認められればその年だけ年貢の量を少なくしてもらえる。これを破免毛見法という。

年貢で物納しないといけないのは主に米と大豆で、麦や商品作物は売った代金で納めてもよかった。また、農民が家の裏や荒地で栽培するサツマイモやソバは、年貢の対象外だった。


【藩邸 (はんてい)】
これは、史実わかっててあえて無視してるんですが…。

当時、京都に薩摩藩邸は三つありました。御所に近い二本松と、祇園近くの岡崎と、京都の端の伏見。ちなみに小説にある錦小路の藩邸は、禁門の変で焼失して、当時は存在していません。

もっと正確に言うと、伏見には秀吉の伏見城の時代から大名屋敷がある。京都が発展して伏見を飲み込んだのは江戸時代後期なので、通常は京都と伏見の二つの町に藩邸がある…という扱いになっている。つまり、京都薩摩藩邸とは二本松のことであって、伏見藩邸ではない。(岡崎はまだ建ったばかりで予備扱い)

登場人物が「藩邸」と言うのも不自然で、「京屋敷」が当時の普通の言い方。「薩摩藩邸」でなく「島津屋敷」ですね。

で、史実に沿うと、朝廷工作していた大久保さんは、二本松藩邸で主に仕事をして、近くの自宅から通勤してました。
伏見は、流通・軍事拠点なんで、普段はあまり用がない。

ただ、幕恋の場合、寺田屋のご近所で、小娘がしょっちゅう遊びに行ける伏見藩邸の魅力は捨てがたい。
このサイトだと他にも、いろいろと話の都合があるので、小娘は伏見藩邸滞在ってことにしてあります。

で、長州も同様に京都三条と伏見に藩邸がありましたが、どっちも禁門の変で焼けてます。幕恋では寺田屋から遠いって設定なので、こっちは三条の方と解釈してます。


【バーミンガム・スモール・アームズ・カンパニー (ばーみんがむすもーるあーむずかんぱにー)】
Birmingham Small Arms Company。略称BSA。

1861年(幕恋の5年前)、世界の銃器産業の中心地だったバーミンガムのガンクォーター地区で、鉄砲鍛冶など14社が共同設立した会社。
英国国営のエンフィールド造兵廠と技術提携していて、同じ銃も作っていた。

1865年8月13日(西暦)、薩摩留学生一行のうち、家老の新納さんと藩士の五代さんと通訳の堀さんがバーミンガムを訪れ、ショルト商会というところから小銃2300丁(うち400丁は宇和島藩用)、騎兵銃50丁、大砲隊用小銃200丁、常短小銃200丁、元込小銃12丁、双眼鏡4個、洋学書・軍学書などを購入する。

この元込銃12丁ってのは時期から言って、英国産初の元込式ライフルのスナイドル銃だと思う。
スナイドル銃はまだ英国陸軍で開発中で、本格生産開始は翌年の1866年だが、エンフィールド造兵廠やBSAでは試作品を製造して一部の顧客に試験使用してもらっていた。
この少し前、大久保さんは新納さんに英国で新式銃買ってきてねと手紙で頼んでいる。
たぶんパークス公使あたりからの情報だと思うけど、まだ英国外には出回っていない開発中の新型銃のことまで知っているとは…大久保さん、恐るべし。
その後も大久保さんと言えばスナイドル銃、って感じでいろいろエピソードがあるけどここでは割愛。


【幕末四大人斬り (ばくまつよんだいひときり)】
幕末四大人斬りと言われるのは、たいてい以下の四人。

岡田以蔵(土佐)
田中新兵衛(薩摩)
中村半次郎(薩摩)
河上彦斎(熊本)

地域偏ってるなあ…。
ただし「人斬り」と呼ばれたのはいずれも後世のフィクションであり、幕末にそう呼ばれたわけではない。

この4人の共通点で面白いのは、全員1862年(文久2年)に京都に来ていること。
脱藩して自費で上京してきた新兵衛以外は、藩主の上洛の警護役としてついて来た。
江戸への留学経験のある以蔵以外は、初めての京都である。

以蔵は当然、武市さんと京都に来たわけだし、半次郎さんは大久保さんと同時に来たわけだけど…。
龍馬さんも脱藩して京都に立ち寄る。
慎ちゃんも負けじと、初めて土佐を飛び出し、自費で江戸まで行く途中で、京都に来ます。
桂さんも藩のお仕事で京都に来るし、高杉さんは上海から江戸に行く途中で京都に寄る。

何が言いたいかというと…1862年は、全国各地から志士たちが京都に集まり、一挙に治安が悪化した年。
田中新兵衛の島田左近暗殺を皮切りに「天誅」と称した攘夷派のテロが相次ぐようになる。
人斬り4人が京都に勢ぞろいしたという事実が、その辺を象徴しているなあ…と思ったのでした。


【万国公法 (ばんこくこうほう)】
英語ができるというふれこみの小娘ちゃんですが…志士の皆さんが英語について質問したがるシチュエーションてどんな時かな、と考えてみた。

やっぱこいつかな。龍馬さんがいろは丸事件で持ち出した「万国公法」。
幕恋の前の年あたりに中国語訳が出て、志士はみなそれを読んでいた。日本語訳が出たのは明治になってから。
なので幕恋時点で龍馬さんが読んでたのはこれ↓



幕末志士は漢文読めないとやってらんなかったのがよくわかる。
英語版はこっち↓



二つを比べるとわかるけど、中国語版は省略も多く、かなり意訳してあるので、細かい部分は英語を参照しないとわからなかった。
なので志士の皆さんが原書を前に、うーんと悩む姿は想像できるのですが…。


しかし…小娘、これ二つ並べて聞かれても、絶対答えられないだろうなあ…。

「ここのalienのextraterritorialityちゅうんが判らんがやき…」
「エイリアン?エクストラ何とかって、えと、宇宙人だっけ?」(注: それはextraterrestrialです)
「外国人の治外法権だ。小娘、今何か別なことを考えたろう」
「ちがいほーけんって何、以蔵?」
「俺に聞くな」

志士のお相手はたいへんです。



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