用語集

【ひ】 10件

【避諱 (ひき)】
江戸時代まで諱、つまり本名を口に出すことは無礼と考えられていた。
そこから、目上の人の諱を自分の名に使うことを避ける習慣が生まれた。これを避諱という。

特に薩摩藩では、藩主や家族の名前と同じ字を使うことが藩法で禁じられていた。
慶応元年一月、島津久光の七男の真之助が元服して、久済(ひさなり)という諱になる。
大久保さんの諱は利済(としさだ)だったので済の字が使えなくなり、利通に改める。
なぜ通の字にしたかは伝わっていない。

逆に徳川家などでは主から近しい家臣へ、主従のしるしとして名前を一字授ける風習がある。
たとえば島津斉彬は徳川家斉から斉の字をもらっている(家斉の正室は薩摩の姫君)。
これは格式がある家にしか許されない特権と考えられており、非常な名誉とされていた。


【ヒゲ (ひげ)】
リアル大久保の有名なひげ。

岩倉使節団で訪欧中にビスマルクに会って憧れたからだとか、いやリンカーンだとか、いろんなことが言われているが、特に根拠もなくバラバラな意見である。
で、調べてみた。

まず、大久保さんの写真。


プロイセン王国宰相ビスマルクと、米国元大統領のリンカーン。
 
ぜんぜん違うやんけ。

おそらく大久保さんが真似たのは、この人、オーストリア=ハンガリー皇帝フランツ・ヨーゼフ1世。


ただし大久保さん、この人に会わずに帰国している。当時のオーストリアは敗戦続きで下り坂なので、憧れて真似たわけではなさそうだ。

調べてみると、単純な話。
当時、この皇帝のおヒゲのスタイルは、流行の最先端だったんですね。
特にイギリスあたりでは、このヒゲをしてた男性が多かった。
つまり、単にオシャレでこのスタイルを選んだのだ。

それに、日本に限らず、お仕事で欧米に行って、ヒゲを伸ばし始めるアジア人男性の動機って、今も昔も十中八九は
「東洋人は顔つきが優しいから交渉でなめられないようにしたい」
だと思うんですけど。
つまり、外交のお仕事を真面目に頑張るとこうなる。

なんで大久保さんの場合だけ、欧米の権力者に憧れたからだって、世間に言われちゃうんですかねえ。


【筆跡診断 (ひっせきしんだん)】
たまたまだと思うけど「大久保」の字はわりと筆跡による性格診断によく使われるパーツが入っている。
で、調べてみた。

あくまでも、巷に流布している風説なので、鵜呑みにはしないでね。



「大」の字の上が飛び出ている人ほど、リーダーの素質がある。
字が小さく、払いの短い方が、自己抑制の強い傾向がある。

「保」の「口」の部分で、左上がくっついていなくて、右上が角ばっている人は、他人と考え方が違っていても気にしないけれど、行動は羽目を外さずルールを守る堅実型で、指導者に向いている。
下の部分が空いている人は、お金が出て行ってしまいやすいタイプ。

ひとつひとつの字の大きさに差が激しい人は、変化が好き。予測できない変化への対応能力が高く、他人がやらないようなことをやり、成功する。

…なんて、この辺は合ってるなあ…と思うけど。
払いの部分があまり大きくハネない人はあきらめが早く、粘り強くないそうです。それは違うんでないかい、とちょっと思いました。


【人斬り半次郎 (ひときりはんじろう)】
半次郎さんの関わった殺人で記録に残っているのは、正当防衛と戦争を除き、1867年9月の上田藩士、赤松小三郎殺害事件の1件だけ。

人斬りの異名は後世の創作によるものですが、当時からホラ話好きな親友の田中幸介(中井弘)が「あいつは斬ると言ったら必ず斬る」と言いふらしている。
また、話の出どころは不明ですが、半次郎さんが誰かに剣の上達法を聞かれて、道場で練習するよりも月に一回人を斬った方が確実に早く強くなると答えたなんて話も、まことしやかに伝わってて、半次郎さんは幕末期に数えきれないほど人を斬ったという世間のイメージが出来上がったらしい。

現代の感覚では、とんでもない不名誉なイメージですが、半次郎さん本人が嫌がっていたかどうかは不明。
というのも、幕末の薩摩の皆さんは、荒っぽいと言うか、戦国時代の気風のままと言うか、自ら進んで「おいが斬った」アピールをする傾向があったようである。

事実、1862年の生麦事件では、被害者の検視報告に記録されている傷の数より、自分も斬りつけたと証言している藩士の人数の方が圧倒的に多い。
それも、けっこう自慢げである。
どういう人たちなんだよ…。

幕末の争乱期は身分の低い武士にとって、出世のチャンスでもあった。
討幕軍の士官に抜擢してもらうために、自分や友人の戦闘能力には多少尾ひれをつけて言いふらすのが普通の感覚だったみたいです。


【一橋徳川家 (ひとつばしとくがわけ)】
徳川吉宗の四男を始祖とする徳川の分家。

徳川家の序列は、将軍の後継権の順番から言うと、
@徳川将軍家(宗家)
A徳川御三家…尾張・紀州・水戸(水戸がいちばん格下)
B徳川御三卿…田安・一橋・清水(一橋がいちばん有力)

安政の大獄の原因となった将軍後継者問題では、井伊の推す慶福(後の家茂)は尾張家、水戸・薩摩の推す慶喜は一橋家なので、家柄では慶福が圧倒的に有利だった。

薩摩島津家と一橋家の関係は深い。
一橋家出身の将軍、徳川家斉の正室は、薩摩25代(4代前)藩主の島津重豪の娘。
その重豪の正室も、一橋家初代当主の徳川宗尹の娘。
薩摩先代藩主の斉彬公の正室は、一橋家3代当主の徳川斉敦の娘。
んで斉彬公の養女の篤姫は、徳川家斉の孫で13代将軍の家定の正室になる。

将軍の正室を出した大名家は薩摩以外にない。
幕末ドラマとかでよく薩摩は外様大名のくせに…と言われるが、実際は薩摩も将軍家も親戚同士のつもりで動いている。
ただし薩摩は舅としてダメな婿殿の行いを正す…といったノリだが、将軍家はたとえ舅でも身分はずっと格下なんだから黙ってろと思っていて、困った時だけ頼ってくる。
要は家族経営企業で、社長(徳川家)がワンマン経営で会社を傾かせ、役員の舅(薩摩)が取締役会(諸藩)を味方につけて社長を追い出した…と考えると、薩摩関係の幕末史はわかりやすいです。


【日野農兵隊 (ひののうへいたい)】
文久3年(1863年)、つまり奇兵隊とほぼ同じ時期に多摩の日野一帯で組織された農民による銃撃部隊。
農兵隊の提唱者は代官の江川太郎左衛門。今の静岡東部から東京都西部くらいを管轄していたお方で、お父さんは高島流砲術の始祖、高島秋帆の直弟子だった江川英龍。
まあ要するに、当時の西洋砲術の第一人者だったお方。

日野の責任者は、土方さんの義兄の佐藤彦五郎さん。
多摩一帯はもともと、幕府の役人がほとんどいないので治安に手が回らず、農民に武器を持たせて自衛させていた。
なので彦五郎さん家でも、天然理心流の道場を作って近所の農民の皆さんを鍛錬してたわけです。
で、農兵隊を作ることになると、名主だった彦五郎さんや組頭・百姓代などの皆さんは、芝の江川塾まで行って砲術の訓練を受けました。

幕恋の年の慶応2年(1866年)には武州(今の埼玉・東京西部)で一揆が起こり、日野も襲われますが、農兵隊が撃退します。
その後、戊辰戦争で土方さんが地元に帰って来ると、彦五郎さんは横浜から元込銃を買いこんで一緒に甲府戦に参加。
残念ながら戦いには負けてしまいますが、土方さんが見事なまでに素早く西洋式にシフトチェンジできたのは、彦五郎さんの助言もあったのかもしれません。


【百姓 (ひゃくしょう)】
これはごく最近見直されてきた史実なんで、年代によっては学校でまったく習ってないと思いますが…。

実は、百姓=農民、ではない。差別用語でもない。

百姓は苛酷な年貢に苦しめられ、領主や代官に厳しく生活を規制され、飢え死に寸前の苦しい生活を送っていた…という従来のイメージも、実は間違い。
このイメージのできたのは第二次大戦後。
特に、安保闘争でマルクス主義的史観が流行し、そういう「百姓」の出てくるマンガやテレビドラマが多く作られるようになってから、定着したイメージです。
つまり、わりと新しいイメージなんです。

NHK教育のサイトなんか見ると、そういうイメージは違うと書いてあります。
安保のころの大学などと違い、最近の高校ではもう少し実態に近い「百姓」像を教えてるってことですね。

百姓とは、大雑把にいうと、年貢を払っていた人たち…くらいの意味です。
この年貢についても誤解が多くて、米の収穫量と年貢の量しか記録されてないことが多いので、収穫のほとんどを年貢に取られて種モミしか残らなかった…だから百姓は常に飢えていたなんて話がまことしやかに言われていました。
でも、その後、学者さんが実際に調べてみると、そこは漁村で米より海産物がいっぱい獲れてたから、米のほとんどを年貢に納めても、全然生活に困らなかったことがわかったりしています。


【ヒュッツポット (ひゅっつぼっと)】
オランダ料理。
人参・じゃがいも・タマネギをブイヨンで煮て、マッシュしたもの。
とにかく真っ赤っかに見えるくらい人参が大量に入っているのが特徴。

誰かさんにとっては地獄のような料理である。

シーボルトの住んでいたライデンという町では、10月3日のライデン解放記念日にこの料理を食べる。


【兵庫開港要求事件 (ひょうごかいこうようきゅうじけん)】
薩長同盟締結の数か月前に起きた事件。
孝明天皇の反対で遅れていた兵庫(神戸)の開港早期化を要求して、英国公使パークスが艦隊を兵庫沖に派遣した。

艦隊の旗艦プリンセス・ロイヤル号は、大砲を91門も搭載してたそうですが…なんかすさまじい。

その後、イギリスと薩摩の交流がさらに進んだり、この問題を巡って開催された四候会議で将軍と藩主たちが対立して、倒幕への道筋が明確になってきたり、まあ色々あるんですが…。

まあ、ここのお話としては「やったね。兵庫なら近いから、英国公使館イケメン軍団を出せるぜ」という意味合いが大きいかも♪


【びいどろ (びいどろ)】
ガラスのこと。ポルトガル語のvidroが語源。
幕末ごろにはガラス製品は庶民の間にも広まり、食器のほか、風鈴、金魚鉢、かんざし、ビー玉など、生活のちょっとした彩に使われるようになる。

ぎやまんは切子ガラス製品のこと。
長崎→大坂→江戸→薩摩とその製法が伝わり、それぞれ独自に発達したが、江戸時代から生き残っているのは江戸切子だけ。
小娘は江戸っ子という設定だが、日本橋や深川だと今でも街頭に並べて工場で出た半端物のコップを安売りしてたりして、日常よく見かける。江戸は他の都市と比べ、庶民的なガラス製品が多く作られてきた。
反対に薩摩切子の多くは高級品で輸出もされていた。これは元々軍需用で、製薬工場で作られた薬(医療用ではなく雷管や火薬の製造用)を保管するガラス瓶を製造するために始まったもので、薩英戦争と西南戦争で伝統が途絶えた。近年の研究で技術が復元され、また作られるようになった。
幕末の一時期には長州でも切子ガラスが作られたが、薩摩の斉彬公に紹介してもらった江戸の職人から伝わったもの。

ちなみに江戸など一部地域では美人のことをビードロと言うことがあった。(例えば龍馬さんのいた道場の近所とか)
なぜあのタイミングで小娘にビードロを贈るのか、いまいち意味がわかんなかったけど、要するに「おまんは美人じゃ!」と言いたいわけですね。



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