用語集

【ふ】 8件

【ファヴルブラント商会 (ふぁぶるぶらんとしょうかい)】
スイス人貿易商のゼームズ・ファヴルブラント(James Favre-Brandt)が横浜で開いた商会。
戊辰戦争の時に薩摩が使った小銃や、長岡藩のガトリング砲を売ったので有名だが、本業は時計商人。(スイス人だしね)

薩摩が銃の入手先を長崎から横浜に徐々に移していった理由は、ほぼグラバー商会が独占していた長崎と違って、横浜は商会が乱立していたために競争が激しく、買い叩けたこと。ただしその分、グラバーさんよりもかなり怪しい感じの海千山千の商人も多かった。
こいつらとの交渉で手腕を発揮したのが、西郷さんのいとこの大山弥助。

ファヴルブラントは文久3年(1863年)に、日本との通商を求めるスイス遣日使節団の一員として来日。
だけどちょうど薩英戦争の時期で幕府も交渉どころじゃなく、来日後10か月もほっとかれる羽目になってしまった。
けど、使節団一行はその機会を逃さずに日本各地を見て回って商売の種を探し、精巧なイラストで当時の文化を記録した「幕末日本図絵」という本を残した。
ファヴルブラントもそのまま日本に定住し、今の横浜スタジアムと中華街の間あたりに店を持つ。

明治になると西洋式時計が大流行。ファヴルブラントは生糸を輸出した金でスイスから懐中時計を輸入し、各地に建てられた時計台にも機械を納めた。
つまり「時計と言えばスイス」のイメージを日本に広めたお方。


【フェニモア・クーパー号 (ふぇにもあくーぱーごう)】
ペリーが2回目に来日した1854年に、米国測量調査船団のひとつとして日本海を調査した船。
「花燃ゆ」で長州沖に黒船が来ると噂になり、主人公が見に行くというエピソードは、たぶんこの船のこと。


【フランス香水 (ふらんすこうすい)】
これは大久保さんじゃなくて、中村半次郎さんの話ですが、フランス香水を愛用なさってたそうです。
なんか日本画を習ってたって話もあるし。
意外におしゃれ。
この方、人斬りと言われてますが、記録に残る殺人は1867年の1件だけ。
つまり、幕恋の時点で人斬りと言われるのは、実は変。
でもまあ、京都で薩摩の警護担当だったことは事実。


【古着屋 (ふるぎや)】
江戸時代は、今と比べてものすごくリサイクルが徹底していたので、庶民が着物を買うのは通常は古着屋である。
寺田屋にお世話になったら、小娘が着物を買うのはたぶん呉服屋ではなくこちらになる。

古着屋の扱う商品は店によってかなり違う。
中には、数回袖を通しただけの新品同様のものしか扱わなかったり、企画もので自分のところで仕立てた新品の着物をつるしで売っているところも、中にはある。
江戸時代の都市部の家は収納が少ないので、お洒落である程度お金持ちの人の場合は、ちょっと飽きた着物はすぐ古着屋に売って、流行のデザインの新品同様の商品を代わりに買う…という使い方もあり。

もちろん、雑巾になる寸前のボロしか置いてない店もある。
また、傷んだ古着を分解して、袋物などに仕立て直したり、端切れにして、売っているところもあった。


【豚小屋 (ぶたごや)】
ゲームの中で土方さんが小娘を豚小屋に入れとけと言うシーンがある。
実際に、新選組には豚小屋があって、隊士に豚肉を食わせてたらしい。

神戸から子豚を連れてきたそうなんですが、なぜ神戸なのかというのはわからなかった。(神戸の開港は2年後)

幕恋当時の英国人の記録によると、日本で飼われていた豚はこんな顔。上海あたりの太湖豚に似ている。

絵が下手なんじゃなくて、本当にこんなふうにつぶれて皺だらけの顔なのである。
小娘、こんなのに迫られたら、怖いだろなー。

新選組に養豚を勧めた松本良順先生は江戸出身のお方。まあ新選組の主だった面々も江戸から来たわけですが。

当時の江戸は、表向きは肉食禁止でしたが、ももんじ屋という肉料理の店もあり、わりと繁盛していた。
ただし、肉=精が付く薬と信じられていたので、ヤツメウナギなどと同類の下賤な食べ物という扱いではある。ま、新選組の隊士の皆さんくらいの年齢の男性がいちばんの上客だったわけです。

肉は江戸近郊の農村で捕れた猪や鹿が多かった。ももんじ屋は麹町に多かったので、特に甲州街道経由で供給されることが多く、「甲州屋」「豊田屋」などという店名があった。
ちなみに現在のJR豊田駅は日野市にある。よそでも書いたけど甲州街道の日野宿は土方さんの実家の近く。


【豚肉 (ぶたにく)】
江戸時代は、肉類を食べないのがふつうだったが、薩摩では、琉球経由で中国の食習慣が伝わり、豚肉がわりとふつうに食べてられていた。
メニューとしては、豚の角煮や豚骨の煮物あたりが一般的。薩摩汁は鶏肉が普通だけど、豚肉を使う場合もあった。
江戸薩摩藩邸では豚を飼育して売り、うまいと評判だったようである。

でも、京都の藩邸では豚を飼育してなかったらしい。薩摩藩邸で養豚すると、風で臭いが天皇陛下の元に届いちゃうくらい御所に近いから、無理ないかと思うけど。
小松さんはわざわざ薩摩から持ってきた塩漬け豚肉(「塩豚」参照)を、一橋慶喜(後の第15代将軍)に何度もおねだりされて全部巻き上げられたと、大久保さんに愚痴ったりしている。

徳川慶喜は「豚一」と仇名をつけられるくらい豚肉が好きだったのは、お父さんの徳川斉昭に島津斉彬が塩豚を何回か献上してて、味を覚えたらしい。斉昭公と斉彬公は安政の頃に将軍継嗣問題でけっこうやり取りしてた。
それ以前に、水戸藩では黄門様の時代から肉はよく食べている。

日本で本格的に豚肉が食べられるようになったのは、開国後、横浜の中国人の影響と言われる。
特に神奈川往還沿いの地域で養豚が盛んとなり、高座豚と呼ばれた。


【物価高 (ぶっかだか)】
幕恋の年の1866年には、各地で打ちこわしが発生した。
打ちこわしとは、商店などが、群衆に襲われて破壊されるという事件。
翌年の1867年には、ええじゃないか騒動が各地で起きた。
こちらは集団ヒステリーともいえる現象で、民衆が集団で踊り狂い出すというもの。

この背景には、幕末期の物価高騰による社会不安があったと言われている。
じゃあ実際に、どのくらい価格が上がったかと言うと…下図は幕恋の10年前の1856年を1とした場合、どれだけ価格が上がったかってグラフなんだけど…。
例えば幕恋の年の1866年、米の価格(赤線)は10年前の11.4倍、前の年の2.7倍に跳ね上がっている。
金の価値(青線)はほとんどあがってないので、1両の価値は10年前のほぼ10分の1。

この物価高騰の原因はいろいろあるけど、大きい理由は
- 外国との貿易開始
- 幕府が質の低い貨幣を鋳造したことで、貨幣の価値が急落
- 長州征伐などの戦争準備のための兵糧米買い占め


データソース:日本銀行

このサイトの大久保さんに気軽に「皆が笑って暮らせる世の中を作る」などのキャッチフレーズを言わせないのは、庶民を苦しめる物価高を何とかするとかも、自分の責任のように感じちゃってるだろなあと思うから。
大久保さん、どこまで背中に荷物を負う気ですかっては思うけどね。

ヾ(=;´ ェ `A


【文七元結 (ぶんひちもっとい)】
古典落語の演目のひとつ。

長兵衛という博打好きの男がいて、借金をこさえて娘を吉原に売るはめになる。
その金の五十両を一年以内に帰せば、娘は店に出さないと言われ、改心して働こうと吉原を出ると、橋の上から身投げしようとしている小僧がいる。これが文七。
店の用事をしくじって、五十両をなくしてしまった…という話を聞き、長兵衛は娘を売った五十両を、文七に押し付けるようにして渡してしまう。
文七は感激して、その金を店に持ち帰るのだが…というお話。

落語の中で、金に困っているやつを助けるっていうパターンの話では、たぶんいちばん有名な演目。
大久保さん√第一話で、ちょろっと設定を使ってます。



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