用語集

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【へそ石餅 (へそいしもち)】
池波正太郎の「人斬り半次郎」に出てくる半次郎さんの好物。
六角形の求肥に小豆が入ってて、きなこをまぶして食べる。

リアル半次郎が好きだったかは不明だけど、錦小路の薩摩藩邸跡(今の大丸京都店)の近くにある六角堂で今でも売ってます。

小説では半次郎はこの餅が好きで、いつもふところに忍ばせてたって設定になってる。
んで長州藩士たちにおのれ薩摩め!とかケンカ売られそうになっても、にこにこ近づいてって餅を配って、こいで友達じゃとか言うんで、あいつはアホかと思われている。

しかしビニールのない時代に餅をふところに入れて歩いたら、胸元がきなこまみれになるんじゃないだろうか。

まあ食通で有名だった池波のことなので、どうしてもこの餅を出したいくらい好きだったんでしょう。
なにしろ半次郎、食ってるものが貧しすぎるんで…美食家にはフラスト溜まるキャラだろうな。


【蛇 (へび)】
後藤象二郎さんがもっとも苦手とするもの。

小さいころ、乾さんと後藤さんがケンカすると、乾さんは蛇を大量に捕まえてきて後藤さんに投げつけた。
当時の高知城下はケンカしてから蛇捕りに行ってもすぐ見つかるくらい、人家の近くに蛇がいたんですねえ。

後藤さんは泣きながらその仕返しに、きれい好きの乾さんがもっとも嫌がるもの…つまり畑の肥料(下肥)をひしゃくですくって、ぶっかけたらしいですが…子どもの戦いとは言え、仁義ないなあ…。

まあとにかく、乾さんは大人になってから、多少の争いでは根に持たない性格に育ち、自分を暗殺しようとした相手でもあっさり許しちゃったりしてますが、もしかしたら、子どもの頃の過激なケンカでつちかわれた精神なのかもしれません。


【変名 (へんめい)】
「志士の問いかけ」で武市さんの変名についての質問があって、あれ?と思った。
あの方、私は逃げも隠れもしないと言って、自分から土佐に戻って捕縛されたはず。つまり、誰かに追われて逃げ回っていたことが、生涯一度もない。
なんで変名なんか持ってたんだ?と思って調べてみた。

そしたら…すげえ。
武市さん、将軍に直接会って攘夷を説くために身分を偽ったのでした。

何がすごいかと言うと、この時期には山内容堂公や島津久光公も、将軍と直接会うことは許されない。
それよりはるかに低い下士の身分で将軍に拝謁しちゃった人って、武市さんしかいないんじゃないか?(側室関係者を除く)

もちろん、武市さんの本来の身分のままでは、将軍に会うどころか江戸城に入れるかどうかも微妙である。
なんで変名を使い、お公家さんの家来だと偽って、勅使の三条卿などと一緒に江戸城に押しかけ、将軍に拝謁した。

当時の容堂公は謹慎中だったから、武市さんを止められなかった。けど、こんなことやってたら、幕府に土佐藩がつぶされかねないぞと焦るわけです。
んで案の定、武市さんを後押ししてた三条卿や長州藩が都を追われると、容堂公の謹慎も解かれ、弾圧に走ることになる。


【変名その2 (へんめいそのに)】
龍馬さんと慎ちゃんの変名は、それぞれ才谷梅太郎と石川誠之助が有名ですが、その他にもいろんな変名があります。

薩摩藩がらみで面白いなと思ったのが、ちょうど幕恋と同時期、薩長同盟の周旋で動いていた時の変名。

慎ちゃんが薩摩藩邸に出入り自由になった時の変名→大山彦太郎
龍馬さんが寺田屋に初めて来たときの変名→西郷伊三郎

これだけだと分かりにくいけど、二人の薩摩藩士の名前を出すと、この変名の意味が解る。

大山彦八…伏見薩摩藩邸の留守居役で西郷さんのいとこ。大山弥助の兄。
西郷吉二郎…西郷さんのすぐ下の弟で、西郷信吾の兄。

つまり、龍馬さんも慎ちゃんも、上の二人のすぐ下の弟、西郷さんの血縁の薩摩藩士に化けてたことになる。
この変名は西郷さんに会った後に使い始めているので、たぶん西郷さんに指定されたんだろうな。
西郷さんの血縁というだけでなく、身元保証などの事務手続きを担当する大山さんの血縁ということになるので、薩摩藩士に化けるのも楽になる。

しかしこれだと、小娘が寺田屋に遊びに行って龍馬さんか慎ちゃんに会いたい時、玄関先で「西郷さんか大山さんいますか?」と聞くことになるのか?
ややこしいなあ…。


【ベルサイユ宮殿 (べるさいゆきゅうでん)】
「正月」のとこで書きましたが、大久保さん御一行、1873年のお正月は、ベルサイユ宮殿で祝賀会を催しております。
その当時の資料を調べたら、なぜかベルサイユ宮殿のオペラ宮の絵がやたら出てくる。

で、私はつい…おい、これって海外視察と称して観光しとんのか?新年からオペラ鑑賞って贅沢だなあ…とイジワルな見方をしてしまったのですが…。違いました。

当時のフランスは、1870〜1871年の普仏戦争で負けて、一時パリが占領され、その後にパリ・コミューンの革命と鎮圧で、かなり大規模な市街戦がありました。
大久保さんたちが訪仏した時はまだパリは復興中で、議会はベルサイユ宮殿のオペラ宮に一時避難してたんですね。

つまり、大久保さんがベルサイユ宮殿のオペラ宮に行ったってことは、正月からお仕事でフランス議会で演説か何かしたんだろうなと思われます。

いやあ…こういうことがあるとほんと、中途半端に歴史調べると、とんでもない誤解するなあ…と思いました。



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