用語集

【う】 5件

【ウェストリー・リチャーズM1861モンキーテイル (うぇすとりーりちゃーずえむいちはちろくいちもんきーている)】
鳥羽伏見の戦いの時に半次郎さんが使っていたらしいライフル。
なんか英国貴族御用達の高級品で、当時薩摩藩士に多く使われていたライフルが20両くらいだったのに、この銃は200両近くしたらしいという話もある。
まあ要するに、当時は知る人ぞ知るマニアックな名銃。
日本刀で言えば正宗とか言われていたという話もある。

たとえば海援隊の1年間の給料が60両だったそうですが、たぶん半次郎さんが薩摩藩からもらっているお金はもっと少ない上、銃は自腹だったらしい。
つまり、半次郎さんには200両の銃なんてとうてい買えるはずないんですが、どうも大久保さんにもらったらしい。

なもんで私はつい、半次郎さんがこっそりこの銃のカタログかなんか見て、欲しいけど買えないから、つい、ため息ついてて、大久保さんに見つかりそうになるとあわてて隠す図とか、想像してしまいました。
で、戦の始まる直前、いきなり大久保さんが半次郎さんを呼び出すと、新しい銃が届いたから持ってけとか言う。

半次郎さん、嬉しいんだけど…。
いくら名銃でも…射撃訓練しないで使えってのは、大久保さん…無茶です…。
みたいな話を想像してしまいました。


【上之園町 (うえのそのちょう)】
安政2年(1855年)12月、西郷家が加治屋町から引っ越してきた町。
引っ越しの理由は借金苦。

場所は、甲突川をはさんで加治屋町のお向かいなので全然遠くないんですが、ものすごい都落ちみたいに書いてあることが多い。
当時はそれだけ、甲突川の東岸(城下)と西岸(城外)に格差があったんでしょうね。

西郷さん自身は上之園町の家に帰ることは少なかったけれど、大久保さんなど友人連中がしょっちゅう訪ねていた関係もあるのか、上之園町の郷中出身者も精忠組に多く加わっている。

半次郎さんは精忠組に加わってないけど、上之園町の二才とケンカになりかけたのがきっかけで仲良くなり、ちょくちょく遊びにくるようになり、西郷さんともお知り合いになる。

精忠組初期の名簿はないみたいなので確認できないけど、西郷さんのお引越しで、より貧しい人たちも、志士活動に加わることになったんかなあ…と思います。


【馬追い (うまおい)】
薩摩藩で武士の鍛錬もかねて四月に行われていた行事。
江戸時代、薩摩は日本有数の馬の産地だった。んで、野山に放牧してた若駒を皆で追い立てて集め、選別する行事がこれ。

幕末頃は二才たちが他の武士の家から馬を借りてきて騎馬で参加した。
行事の詳しい内容はよくわかんない。

馬を育ててた場所は何か所かあったが、半次郎さんちより少し北の吉野牧ってとこがたぶん鹿児島城下からはいちばん近い。

薩摩藩士って士官以外みな歩兵なのに、明治になったら楽々と馬を乗りこなしてるなあ…と不思議に思ってましたが。
(あ、西郷さんは禁門の変で馬に乗ってたという記録はある)
馬追いってことは、場合によっては騎馬で走って、半野生化した馬に追いつけないといけなかったり、裸馬に飛び乗って御せないといけなかったり、かなり高度な乗馬術が必要っスね。
(全員がやったとは思わないけどさ)

でも借りてきたってことは…ふだん家で馬飼ってるやつはいないんだな。
きっと毎年行事前になると、よその郷中に負けるな!とか皆で盛り上がって特訓したんだろうなあ…。


【梅屋敷 (うめやしき)】
東京大田区の聖蹟蒲田梅屋敷公園付近一帯は幕末当時は梅の名所で、茶屋や料理屋があり、志士たちの秘密の会合にもよく使われた。
大久保さんも来てたらしいけど、詳細は不明。

文久2年に高杉さんや仲間たちが英国公使の暗殺を企てた時、武市さんがそれを前土佐藩主の容堂公に知らせたので計画がばれ、長州の若殿様の毛利定広に叱られたのが、この梅屋敷。新暦だと1863年1月3日くらいの話なので、残念ながらまだ梅は咲いてない。

若殿様から汝らに先に死なれては心細くてならぬから思いとどまってくれと言われ、一同涙をこぼして反省したそうですが、高杉さんだけは不満げに若殿様に反論したそうです。
その直後に心配して駆けつけたのが、高杉さんの上司の周布政之助。この人は高杉さん大好きなのですが酒癖が悪く、この日もすでにどこかで飲んでいたらしいのですが、若殿様から一同にまあ酒でも飲めと勧められてた最中だったので、周布さんもさらに酒を飲んでしまう。
その後、容堂公の命で様子を見に来た土佐藩士4人とも合流し、皆で馬に乗って帰ろうとした時に、周布さんが酔った勢いで容堂公の悪口を言い、怒った土佐藩士と斬り合い寸前の大騒ぎになるんですが、高杉さんがここは俺が成敗するとか言って(おい、上司だろ)、斬るふりをして馬の尻を刀でつついたので、馬は周布さんを乗せたまま走り出し、なんとかその場はおさまったのでした。


【梅屋敷その2 (うめやしきそのに)】
上の話には続きがあり、土佐藩士4人が藩邸に帰った後で、またひと悶着あった。
現藩主の山内豊範が話を聞いて、周布を取り逃がしておめおめ生きて帰ってきたのかと怒鳴りつけたので、4人は長州に周布さんを引き渡してもらわないと、土佐藩邸に帰れなくなってしまった。彼らは長州藩邸へ、断られたら斬り込んで死ぬ覚悟で談判に向かう。
一方、長州藩邸の中では、周布さんが切腹すると言い、高杉さんたちは何があっても周布さんを守る、引き渡すもんかと熱くなっている。
下手すると今度は完全に、長州vs土佐で斬り合いになりそうな雰囲気である。

するとしばらくして、全員が長州の若殿様の前に呼ばれた。見ると若殿様の横で、乾さんがにやにやしている。
当時、乾さんは容堂公の用人。この少し前に容堂公に、ちょっと長州藩邸に行って何とかしてこい、と命じられた。んで土佐藩士4人や周布さんや高杉さんたちが揉めてる間に、さっさと長州の若殿様に、土佐藩邸に来て下さいと話をつけてしまっていた。
翌日、長州の若殿様が土佐藩邸に来ると、乾さんの手筈どおりに容堂公が出てきて周布さんをベタほめし、怒ってないよとアピールしてみせたので、周布さんは切腹しなくていいことになったのでした。
乾さん、やりますな。

ちなみに武市さんが後半に出てこない理由は、慎ちゃんたち五十人組が江戸にやって来つつあったので、その暴走を止めに行ってたから。



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