用語集

【ほ】 7件

【方言 (ほうげん)】
幕末ものフィクションを読むと、たいがい、坂本龍馬と西郷隆盛だけが、ガチガチの方言を話している。

では実際にはどうだったのか。
なんてことは、調べようがないけど…。
ふつうに考えて、若いうちに江戸や京都に出た人、藩から出て活動している期間が長い人の方が、方言はきつくないのが普通だよね…と考えた。
で、自分の藩から初めて江戸や京都などの大都市に出てきた年、それは何年前か、何才の時だったかを並べると、こうなる。

桂 1852年 14年前 19才
龍馬 1853年 13年前 17才
西郷 1854年 12年前 26才
以蔵 1856年 10年前 18才
武市 1856年 10年前 27才
高杉 1858年 8年前 19才
中岡 1862年 4年前 24才
半次郎 1862年 4年前 24才
大久保 1861年 5年前 31才

龍馬さん、土佐出てからの活動が長い長い。おまけに、合計2年半、江戸に留学している。
20才ごろにはきれいな江戸言葉を話せていたと思うけどなあ…。

反対に、大久保さんは…。
当時テレビないから、30過ぎまで薩摩弁以外聞いたことなかったはず。
で、京都に出張して来たのがわずか5年前。
その後、仕事で京都に滞在する期間が少しずつ長くなったとはいえ、しょっちゅう薩摩と往復している。
これじゃ薩摩弁以外話せるわけないスね。
幕恋の立ち絵で、バリバリ方言の大久保さん…。
可愛いかも。


【星神社 (ほしじんじゃ)】
土佐北川郷にある神社。
幕末時代の名称は妙見寺。明治後の神仏分離によって星神社と改められた。この時に中岡家が大庄屋として関わっている。

この神社は昔から悪霊退散、五穀豊穣を願う弓祭りで有名。
神社の垂れ幕や、氏子の裃などすべてが浅葱色で統一され、十二人の射手が弓を競う。
この時の弓の構え方が独特で、服装も決まってるし、やたらかっこいい。

射手になる若者は氏子の長男から選ばれるらしいが、慎ちゃんが出たことがあるかどうかは不明。
ただまあ、庄屋だから、氏子代表として祭りの運営には絶対参加したでしょう。

また、会場のそばでは、お寿司や魚が出されて、参加者にふるまわれます。


【望嶽楼 (ぼうがくろう)】
鹿児島城東にある島津家の庭園、仙巌園の中にある中国風のオープンテラス式の建物。
琉球王から贈られ、要人の接待に利用された。
接待には琉球との貿易で手に入れた品々が使われ、ワインや洋風料理も出たらしい。

1858年5月に長崎海軍伝習所の練習船の咸臨丸で、勝麟太郎やオランダ人教官のカテンディーケ、軍医ポンぺなどが鹿児島を訪問した際に、島津斉彬公は山川港まで馬で駆けつけ、歓待した。
(というか、たぶん黒船に乗ってみたかったんだと思うけど)

その後、斉彬公は勝麟太郎と望嶽楼で会談。蘭学好き同士ということもあり、意気投合。
弟の忠教(後の久光)に勝を紹介。
後で西郷に、勝のことをすごい人物だと話して聞かせた。

ところで斉彬公は、長州の松陰先生みたいに、薩摩の志士の皆さんに道を示したカリスマ的なお方。
特に西郷さんは斉彬公の言うことなら何でも絶対と信じてる。

西郷さんは6年後にようやく勝さんと会う。どんなすごい人だろとわくわくしてたら、雄藩連合の構想を聞かされ、感服する。
さっそく実行しようと思ったけど、さすがに薩摩が表だって動くのはまずい。
折よく神戸海軍操練所が閉鎖になり、勝さんに弟子たちを託された。これはちょうどいいというので、彼らや土佐の脱藩浪士たちを使って、薩長同盟を周旋させることにした。

…と、明治に書かれた薩摩側の歴史書には書いてある。


【ボウリング (ぼうりんぐ)】
日本で初めてのボウリング場は、文久元年5月15日(1861年6月22日)に長崎の外国人居留地でオープンした。
場所はグラバーさんちから600mくらい。とってもご近所。
つーわけで、日本ボウリング協会では半分ジョークとして、日本で初めてボウリングをしたのは坂本龍馬だ!などと宣伝して遊んでいる。証拠は一切ないので本気にしてはいけないけど、可能性はゼロじゃないので想像すると楽しいかも。
ま、それ言っちゃったら長崎の外国人居留地に出入りしてた人には全員チャンスがあるんだけどね。

1864年には横浜にもボウリング場ができる。
当時のボウルには穴が無く、機械化されてないからすべて人力。
ワインやスピリッツなどお酒を飲むこともでき、外国人専用の社交場として使われてたみたいです。

幕恋の皆さんで遊びに行ったら、誰がいちばんスコア高そうか考えるのも面白い。


【墨龍先生 (ぼくりゅうせんせい)】
武市さんの異名。

大正1年に書かれた「維新土佐勤王伝」というのが、武市さんの本格的伝記としては最初のものらしいですけど…。
そこにある武市さんの描写。

「而して瑞山身長陸尺、隆準修腭、眼に異彩あり、其の顔蒼白、喜怒色に見はれず、人或は墨龍先生と呼ぶ、一たび口を開けば、音吐高朗、人の肺腑に徹す。」
(瑞山の身長は181cm、鼻が高く顎が美しく、眼が印象的だった。顔は蒼白で、喜怒哀楽を表情に出さなかった。人はあるいは墨龍先生とも呼んだ。一旦口を開くと、声は明瞭で、聞いている人の肺にまで響いた。)

昔の文章だから格調高いという言い方もできますが、なんか書いてる人、すっごい武市さんに萌えてないかい?…と感じてしまいました。

武市さんの身長が181cmというのは、この伝記が元ネタらしいです。
でも、こういう調子の文章なら、5尺9寸(178cm)でも6尺って書いたんじゃないかなあ…。


【ぼっけもん (ぼっけもん)】
薩摩の男性の典型的性格を表す言葉。

肝のすわった人、大胆な人、という意味らしい。

ちなみに、臆病なやつは「やっせんぼ」と言う。役に立たない人、という意味でもある。

ぼっけもんを詳しく言うと、大胆、豪快、無鉄砲…といった側面以外に、周囲の人が驚くようなこと堂々としてしまう、子どものように無邪気でちょっと可愛いとこもある、なんて特徴もあるらしい。

ま、基本的に、ぼっけもんの代表格は西郷さん…つーことになってます。
半次郎さんも、ぼっけもんって言っていいんじゃないかなあ…。

大久保さんは、何かと西郷さんとセットで語られて、比較対照されちゃうので、ぼっけもんとは正反対の性格のように言われてますが…。

西郷さんを置いておいて、他藩の人とかと比べた場合、けっこうぼっけもん的なところもあるんじゃないかなあ…と私は思ってます。


【ボディガード (ぼでぃがーど)】
序章の謎のひとつ。
大久保さんはなぜ「ボディガード」なんて言葉を知っていて、なおかつ当然のような顔でそれを口に出したのか。

英単語をある程度知っていた理由はいろいろ考えられるけど、主に2つ。
- 少年時代、父親が務める通商関係の役所に、家族ぐるみで住んでいたから
- 1863年の薩英戦争後、イギリスと薩摩の関係が非常に緊密になり、よく仕事で接していたから

んじゃ、なぜ以蔵にボディガードなんて単語を使ったかというと
- 以蔵は、ジョン万次郎と勝海舟の護衛をしたことがある。知っててもおかしくない(知らなかったけど)
- 前年のリンカーン暗殺で、ボディガードが職務怠慢だったということが問題になった…というニュースは、大久保さんなら…つか、気の利いた開国派の志士なら当然知っている
- 海援隊の仕事を手伝って貿易してるなら、当然英語ぐらいかじっているだろうと思った
- 実は小娘が英語を知っているかどうか、カマをかけてみた

私としては、最後の仮説が好きです♪

ちなみに、「シークレットサービス」が要人警護を始めたのは1901年。「セキュリティポリス」は日本の警察用語なので、幕恋で使えません。



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