用語集

【や】 7件

【焼き芋屋 (やきいもや)】
イベントで、龍馬さんが、江戸では焼き芋屋が大流行して、どの町にも二、三軒はあると言っていますが、これはちょっと違う。

ま、この程度のことは間違えても全然恥ずかしくないけど…。
時代小説ファンには常識なんで、ちょっと書いておきます。

時代劇で、岡っ引きがアヤシイ人間を尋問のために連れて行く「番屋」というのがありますが…。
江戸では焼き芋はあそこで売られていました。
焼き芋専門の店はありません。

江戸や京都など大都市では、治安維持のために、各町の境に木戸が設けられていて、夜になると閉められたので、町の外へ出られませんでした。
番屋は木戸のそばに設けられていて、今でいうと交番とコンビニが一緒になったような施設でした。

特に子供向けの商品が多く、駄菓子などちょっとしたおやつや文房具・雑貨などが売られていました。
焼き芋は火を使うこともあり、江戸では番屋以外で売られることがほとんどありませんでした。

また、薩摩芋は飢饉対策で広まった作物ですから、貧乏人の主食みたいな側面もある。
流行…というより、今なら食パンみたいに、あって当たり前の日常的な食品です。

当時は「芋たこなんきん」つまり、薩摩芋とたことカボチャは女子供がよろこぶ食べ物と言われており、男の人はたとえ好きでも、「ふん、こんなもの」という態度で食べるのが一般的だったみたいです。


【野球 (やきゅう)】
以前ブログにも書いたけど質問があったのでこっちにも書きます(= ̄ ェ  ̄=)ノ

日本に野球が伝わったのは明治5年(1872年)、今の東京大学にあたる第一大学区第一番中学で米国人教師のホーレス・ウィルソンが生徒に教えたのが始まり。
この日本初の野球チームの中に、大久保さんの長男と次男がいた。二人は米国留学中に野球を覚えていたので、明治7年(1874年)に帰国してこの学校に編入すると、なかば強制的にチームに入れられたらしい。

世界で野球が始まったのは諸説あってはっきりしないが、米国で野球が普及したのは幕恋とほぼ同時期の南北戦争ころ。その後、各地に次々とプロ野球チームが生まれ、1876年にメジャーリーグが始まる。
つまり、大久保さんの息子たちはメジャーリーガーより早く野球をしていたことになる。

ところでメジャーリーグの試合で、7回表終了後にストレッチを兼ねて、観客全員で立ち上がって歌うのが「私を野球に連れてって(Take Me Out to the Ball Game)」です。これが作曲されたのは1908年。
なので幕恋より少し時代は下がりますが、大久保さんに縁の深い野球の歌ということで、ちょっとタイトルを流用させていただいてます。


【ヤス猫 (やすねこ)】
黄色っぽい茶トラ白ブチの猫のこと。
薩摩では「ヤス」と呼ばれて大事にされていた。

1592年の朝鮮出兵の時に、島津義弘が7匹の猫を連れて従軍したという故事に基づく。
義弘の次男の久保は猫に自分の名にちなんで「ヤス」という名をつけて可愛がっていたが、出兵中に病死した。

島津家の別邸だった仙巌園では、全国でも珍しい猫をまつる猫神神社がある。


【宿探しの手紙 (やどさがしのてがみ)】
よくコメもらうので龍馬さんが慶応3年10月18日に土佐藩白札の望月清平に宿探しの依頼をした手紙の、現代かな使い版を載せときます。

拝啓
しかるに小弟、宿のこと色々尋ね候えども何分これ無し候ところ、昨夜(薩摩)藩邸吉井幸輔より言伝これあり候に
「いまだ(土佐)屋敷に入ることあたわざるよし。四条先斗町ぐらいに居ては、用心悪しく候。その故はここ三十日ばかり後、幕吏ら龍馬の京に入りしと謬伝して(思い込んで)邸へも訪ね来りし。されば二本松薩邸に早々に入り候よう」
との事なり。
小弟思うに、御国表の不都合の上、また小弟さえ屋敷には入るあたわず。また二本松邸に身を潜め候は、実にイヤミで候えば、万一の時もこれあり候時は、主従共にここに一戦の上、屋敷に引き取り申すべしと決心つかまつり申しおり候。
また思うに、大兄は昨日も小弟宿のこと、お聞き合わせ下され候。かの御屋敷のあたりの寺、松山下陳(松山藩陣屋)を、樋口真吉に周旋致させ候よう仰せ話し下され候えば、実に大幸の事に候。
上件はただ大兄ばかりに内々申し上げ候ことなれば、余の論を以て、樋口真吉およびその他の吏々にも御申し聞かされ候時は、なお幸のことに候。不一


【宿探しの手紙(続き) (やどさがしのてがみつづき)】
ついでに大ざっぱな意訳。

さて私、宿についてあちこち聞き回ってみたのですが、何しろ見つからない。ところが昨夜、(薩摩)藩邸(留守居役の)吉井幸輔から伝言が届いて
「まだ(土佐)屋敷に入れないそうですね。近江屋周辺にいると危ないです。と言うのも先月くらいから幕府の役人が、龍馬さんが京に戻ってきたと情報をつかんで、(土佐)藩邸にも聞き込みに来ています。ですので(薩摩の)二本松薩邸にできるだけ早く移ってください」
とのことでした。
私が思うに、土佐の国元での不都合があるので、私でさえ(土佐)屋敷に入ることができません。また二本松の薩摩藩邸に身を潜めるのは実にイヤミなので、万一の時があったら私と家来(の藤吉)で一緒に戦って、土佐藩邸屋敷に逃げ込もうと決心しています。
あなたは昨日も私の宿のことを聞いてくれましたね。(土佐)屋敷のあたりの寺か松山藩陣屋を(土佐藩郷士の)樋口真吉に手配してくれるように命じてもらえれば幸いです。
上の件はあなただけに内々にお願いすることなので、樋口真吉やその他の土佐の役人の方々にも伝えていただければ、さらに助かります。敬具

なお手紙の宛先の望月さんが龍馬さんの宿探しができなかったのは、土佐に出張中だったからです。


【夜尿症 (やにょうしょう)】
龍馬√で龍馬さんは小娘に、小さいころは泣き虫で、幼なじみの武市さんに寝小便した布団を見られたと語っている。
別のシーンで武市さんは、龍馬さんが20才になっておねしょしたことをばらすぞ、と龍馬さんをおどす。

この辺の、チビ龍馬は弱虫だったというエピソードは後世の創作。
明治16年に自由民権派の土陽新聞に連載された「汗血千里駒」という政治小説で、伝聞のあやふやな情報と断った上で
「龍馬は十二三歳の頃まではあまりにその行いの沈着にして小児の如く思えず、あたかも愚人に等しくわけても夜尿の癖さえあれば、その友に凌ぎ(馬鹿にされ)侮らるる事あれども敢えて悖逋色(怖がって逃げる様子)とてなく尋常の才ある童子が早く頭角嶄然と人目を驚かす類のなかりしはこれぞ龍馬が大器晩成のしるしとや言わん」
(要するに、ぼーっとした寝小便たれで、友達によくからかわれた)
と書いてあるのがたぶん初出。

龍馬記念館によると、龍馬さんの子どものころの史料は一切残っていない。
それどころか、性格、服装、好物も不明だそうです。

武市さんと龍馬さんが幼なじみというのも昭和になってからの創作ですが、史実でも龍馬さん14歳のころには遠縁になってるので、この年までおねしょしてたら、見られてます。


【山伏 (やまぶし)】
山岳地域で修行を積み、超自然的な力を得ることを目指す修験道の行者。幕末には日本全国で17万人いたと言われる。
関所での通行が自由だったため、隠密などが山伏に化けて諸国を巡ることも多かったらしい。

薩摩藩では戦国期から山伏を重用した。開聞岳や大野岳などの頴娃(えい)領で修行する者が多く、ここの地元民はエヤンブシ(頴娃山伏)と呼ばれた。
彼らは兵道(ひょうどう)流という薩摩独自の呪術を代々伝え、藩主の命令で人を呪い殺すことができるとされた。
斉彬公の子どもたちが次々と死に、最後に公自身も突然病死したのは、父の斉興公の側室のお由羅の方が山伏に命じたからだ…ってどうも薩摩の皆さんは信じてたみたいですね。毒殺って噂もありますが。

明治5年に修験道は神仏混淆はなはだしいとして禁止されますが、この辺の恨みもあるのかも。

大久保さん西郷さん周辺の山伏関係者だと、伊牟田尚平(いむたしょうへい)がいる。小松さんの実家の肝付家臣下の山伏の息子で、ヒュースケン暗殺や江戸薩摩藩邸焼き討ち事件前の破壊工作などをやったお方。土佐藩で言うと史実の以蔵に当たる薩摩一の汚れ役。

とまあ、おどろおどろしいイメージの薩摩の山伏ですが。
加治屋町の正助君ちの近所に住んでいた日高山伏というお人は、ケチで有名なだけで全然怖くないです。



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