用語集

【お】 10件

【オートミール (おーとみーる)】
大久保さんは朝食にブランデーを少したらしたオートミールを食べていたという話があります。

現在、日本で売られているオートミールはほぼ米国のクエーカーオーツ社の平たく挽きつぶしたもの。
いかにも古風な白いカツラのおじさんの絵なのでかなり古い会社かと思ったら1901年創業。
平たく挽きつぶしたRolled Oatsというタイプのオートミールが生まれたのは大久保さんの亡くなる少し前の1876年か1877年。
つまり、今日本で食べられているオートミールと、大久保さんがおそらく訪欧中に覚えて食べていたオートミールは違うらしい。

大久保さんの食べていたオートミールはたぶんスコットランド風の、石臼で砕いた細かいカケラと粉の混じったタイプ。30分かけてゆっくり煮て作る。
で、食べる時はウィスキーをたらす方が、スコットランドでは一般的らしい。ただし高級な宿ではブランデーが出る時もある。
今日本で売られているものよりクリーミーな舌触りらしいけど、朝からけっこう手間のかかるもの食べてたんだなあ。まあ米飯炊くより時間かかんないけど。

岩倉使節団のころ、米国ではまだオートミールを食べる習慣がなかった。欧州から来た珍しい食べ物として東海岸から広がり始めていた時期。つまり流行のオシャレな朝食だったんですな。


【お家騒動 (おいえそうどう)】
跡目争い…って言うとヤクザか。大名家で誰が跡を継ぐかでもめること。
幕末の薩摩藩もこの辺ややこしいので、整理すると…。

幕末の薩摩藩主は

第10代 島津斉興1809-1851
第11代 島津斉彬1851-1858
第12代 島津茂久1858-1869

ただし、1860年ごろから後の実質上の最高権力者は島津久光

系図で言うと

斉興━┳斉彬
   ┗久光━茂久

で、1850年前後に、斉彬(正室の子)と久光(側室の子)のどっちが跡を継ぐかでお由羅騒動というお家騒動が起きる。
で、当初は斉彬側が負け、そっち側にいた大久保さんや半次郎さんのお父さんは島流しにあう。
その後、斉彬側が盛り返して跡を継いで、西郷さんが取り立てられる。大久保さんもかなり遅れるけど出世する。
ところが斉彬が急死(コレラという名目だけど毒殺っぽい。
跡を継いだ茂久はお飾りで、久光が実権を握る。
大久保さんは普通に考えると憎い仇のはずの久光に近づいて、抜擢され、ついで西郷さんも藩政に加わり、薩摩藩を引っ張ってくようになる。
ただし、西郷さんと久光公には最後まで確執があったし、大久保さんと久光公の関係もかなり微妙だった。

複雑だなあ…。


【おいは知らん (おいはしらん)】
征韓論に敗れて、明治政府を去ることになった西郷さんに「後のことは頼む」と言われて、大久保さんが答えたと言われるセリフ。
初めて読んだとき、私は、大久保さん、よっぽど西郷さんが出て行っちゃうのが悲しくて、すねちゃったんだろうなあ…と思ったけど、大部分の人は「大久保という人はなんて冷たいんだ」と受け取るらしい。
さて、どっちなんでしょう。

冷静沈着というイメージの強い大久保さんですが、西郷さんが窮地に陥ってる時は、かなり感情的になってる発言が多い。
例えば、1862年の寺田屋騒動の直前。西郷さんが流罪になると決まった時。それを不服とする過激派分子に、西郷さんが担ぎ出されるんじゃないか…って時に、説得に行った大久保さんが口走った言葉が、「おいと一緒に死にもんそ。」

西郷さんってこういう時、いつも、「体制側に迫害されるヒーロー」ってふうに、話を持ってっちゃうんだよね。…そのあおりで、大久保さんは、西郷さんを助けたくてじたばたすればするほど、「体制側のイヌ」的役割に追い込まれちゃう。

この話を聞いて、なんか大久保さん、痛々しいくらい不器用に、西郷さんの心配してるよねって、私は思ったけど、多数派の意見は「一か八かの捨て身の説得方法だが、効果は絶大だ。大久保という人は頭がいい」というものでした。

ほんと大久保さんって、自己アピール下手だなあ。


【大坂藩邸 (おおさかはんてい)】
薩摩の大坂藩邸は旧淀川の土佐堀川付近にあり、上屋敷と中屋敷が並んで立っていた。
ここでは米や砂糖など薩摩産品の取引、長崎経由の貿易などを仕切っていた。つまり、薩摩の倒幕資金を生み出していた場所。
北前船を使って、蝦夷の昆布と中国の漢方薬などを密貿易していた中継地点でもあるけど、大型船はもう少し河口までしか入れないので、小型船を何度も往復させて蔵に運び込んでいた。

藩邸に隣接して、薩摩屋半兵衛・薩摩屋仁兵衛、薩摩屋万吉(薩万)など、七軒問屋と呼ばれる御用商人も軒を連ねていた。
このうち、薩万は海援隊の大坂の拠点だったらしい。
人足の世話をする稼業なので、若い身元のはっきりしない男性が出入りすることが多く、浪士を匿いやすく、おりせさんという女将が、主人の万吉とともに世話をしていたらしい。
なので、龍馬さんなど土佐浪士は、大坂薩摩藩邸には伏見藩邸以上にしょっちゅう出入りしてたと思われる。

鳥羽伏見の戦いの時には、伏見より一足早く、幕府軍に明け渡しを要求され、大坂薩摩藩邸では自ら火を放って焼失する。
もちろん、小娘や大久保さんが大坂藩邸に置いていた私物があれば、この時に全て焼けることになります。


【お国言葉 (おくにことば)】
前々から、半次郎さん式ほのぼのじゃなくて、きつめの薩摩弁が書けるようになりたかったけど…。
「もす」で終わらない言い切り型のセリフは、語尾が複雑なので難しいです。
(=T ェ T=)

最近どうにか形になるようになってきたので、気をよくして、訳してみました。

序幕、大久保さん登場シーン。
イメージ壊れるの嫌な人は見ないでね。

間違ってたら教えてくださいませ。
**************






「遅かっ!」
「フン、こいじゃって土佐んしは、信用しはならんど」
「おいが時間を、わいどんがそいとおんなしに、やすつこな」
「そいも何ごちゃ、こん小娘(こむいめ)は?」
「まこて、どげなつもいかはわからんどん、おなごを連れっくっなんち」
「岡田君も岡田君じゃ。ことわいんひとこっも出やならんたぁ」
「まこて土佐んしは」
「わがこどんに、ひとん言葉んつけ方どん、いっかすっこっせえでけんと見ゆっ」


ちゃんと嫌味っぽく感じていただけてるといいなあ。

元のセリフをここに貼るのはさすがにまずいと思うので、序幕やる機会があったら比べてみてね。
(=´ ェ `=)ノ


【御小姓与 (おこしょうぐみ)】
大久保さんが生まれた時の家格(家族単位の身分)。
薩摩の場合、「御小姓与(おこしょうぐみ)」という家格と、「御小姓方(おこしょうかた)」という役所があって、まったく違うものを指すのでややこしい。

小姓とはもともと、藩主またはその家族の身辺の警護や雑用をする役のこと。(藩主家族以外の世話係には使わない)
警護役ってとこから派生して、藩主直属の軍事組織を小姓組と呼ぶようになり、藩主の居城の周縁部を守る下級城下士の家格が御小姓与ってことになったっぽい。

つまり、藩主と直接会うことができる御目見(おめみえ)の中では、最下層の身分という意味。
徒歩(かち)つまり歩兵なので、ふだんは馬に乗らない。ただし馬追いなどの行事や、訓練時・戦時に馬に乗ることは可能。

徳川幕府や諸藩にも御小姓組という似た名前の組織があるが、指すものはそれぞれ微妙に違う。

一方、薩摩藩のお役所の「御小姓方」は、現代の会社の社長室みたいなもんで、藩主のお仕事のうち雑務に近いものを補助する係。
家老になれるような高い身分の人が、初めてお城に勤める時になることが多く、小松さんも最初は奥小姓になった。つまり家老見習のさらに見習みたいな役職。
大久保さんや精忠組の仲間など、御小姓与の皆さんは家格が低いので、小姓役ではなくその配下の小納戸役になる方が多い。


【オットイヨメジョ (おっといよめじょ)】
本来の意味の略奪婚。つまり、男性が女性をひっさらって嫁にすること。(不倫のことではない)
昔の薩摩の農村にはそういう風習があったらしい。

幕恋では大久保さん、小娘を寺田屋や長州藩邸からひっさらおうと虎視眈々と狙ってますが…。
大久保家も何代か前までは半次郎さんちと同じく農村に住んでたらしいし、そういう発想してもおかしくない?
実はとっても薩摩隼人っぽい愛情表現だったりして。
ヾ(=;´ ェ `A コジツケテルナー

この手のアヤシイ薩摩の習俗って、いろいろ伝承がありますが…なんか皆、太平洋の島々やシルクロード地域の風習にそっくりなんスよねー。
薩摩には黒潮とともに、古来から異国文化が流れ込んで来てたっつーことっスかね?

オットイヨメジョがどんなものだったかは、ちゃんとした資料がないんでわかりません。
昔の農村の祝言は金がかかったので、相思相愛でも貧乏な場合は、実家から娘ひっさらって逃げるっつーことはあったらしい。

アジア太平洋地域の略奪婚だと、例えばある国では「さらって逃げたいほどお前を愛している」と男性がアピールする一種のイベントとして、「×月×日にお前をさらう」と予告して花嫁を連れ去り、親兄弟が追っかけるって結婚式があるらしい。派手だなー。

どっちにしろ、いろいろ妄想したくなる風習ではありますね。


【お供 (おとも)】
幕恋では気軽に出歩いている大久保さんですが、藩の重役なので薩摩の格式では大通りを歩く時は、少なくとも槍持ち1人、草履取り1人、従者1人の計3名を従えて歩かないといけない決まりになっていました。
槍持ちってのは槍持った護衛じゃなく、大名行列とかでよくあるフサフサ付いた槍を掲げて、前を歩くあれです。派手だなあ。
と言ってもリアル大久保もこの決まりは大っ嫌いで、できるだけ細い脇道を通り、家来には10m以上後ろを歩かせてたそうです。大久保さんの家来も楽じゃない。

ただ大久保さん、十五人扶持以上はもらっている。扶持米ってのは家族手当&必要経費みたいなもん。
簡単に言うと「家族+家来で15人は養ってね」という含みのあるお給料。藩のお仕事だけでは皆が就職できないから、お前も家来雇って失業率下げろと配られるお米。
なので家来を持つのは半ば義務だったとは思うんですけど、何人くらいいたかは不明。居候はたくさんいたっぽいです。
つまりまあ、小娘は大久保さんと結婚するとすぐ、大久保さんがお仕事で留守の間、使用人や居候たちを束ねる若奥様になんないといけないわけですな。できんのかな?

ちなみに大久保さんの京都での従者はたぶん、中村太郎君。幕恋当時14才。大久保さんが大坂で拾った孤児の男の子。
名前は似てますが半次郎さんとは関係ありません。この子は明治になると、大久保さんの馬車の御者になります。


【小野津 (おのつ)】
喜界島のいちばん北にある集落。
大久保さんのお父さんが流された場所。
海沿いの漁港で、サンゴ礁の島なので地面は白く、海はオパールのような青緑。地元ではハワイに似ていると言っているらしい。

流人は通常あちこちの集落にばらばらに配流され、地元の子どもに読み書きを教えるなど、知識を活かした仕事をしたけれど、小野津にはすでに内田次右衛門という流人が塾を開いていた。
そのため、大久保さんのお父さんが何をしていたかは不明。
塾があるなら、何で他の集落に配置されなかったんだろ。

小野津は喜界島のサトウキビ生産の中心地。
同時期、奄美大島でやはり流人の名越左源太がサトウキビの実態調査をさせられてたことみると、大久保さんのお父さんも同じことやってたかもね。


【女大学 (おんなだいがく)】
女子大のことではない。
江戸時代に、女性の教訓書として読まれていた本。
とにかく夫に尽くせという内容の本なので、今見ると笑っちゃう。
時代的に、商人が台頭し、武士より豊かな家が現れた時代の本だし、儒教の書物の「大学」という名前を使っていることなどを考えると、小娘と同じようなシチュエーション…つまり、わりといいところのお嬢さんが、嫁入り前に教育されちゃってますって状況で使われたんじゃないかなあ…と思う。
まあ、こんな感じの状況ですね↓


PCなら、左下から全文が読めます。

若い女性は、男性に物を渡す時でさえ、手から手に直接渡すな、風呂も同じ場所を使うな…など、なかなかすさまじい。

でも、志士の皆さんの好みには合わなさそうな女性像だな(幕恋もリアルも)



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