用語集

【か】 26件

【開墾 (かいこん)】
半次郎さん関係の史料を見ると、やたらと開墾という単語が出てくる。
十代の頃に京都に上るまでと、明治6年に下野した後、半次郎さんは鹿児島にこもって、田畑の開墾をして生計を立てている。
これ、自分ちの田畑が狭くてあまりたくさん収穫できなかったから、開墾して耕地面積増やしてたのかなあ…と最初は思ってたんですけど、違った。

薩摩藩では武士が藩の許可を得て開墾した土地を、抱地(かけち)、仕明地(しあけち)、持留(もちどめ)などと呼ぶ。
自分で開墾した土地は、実質上、自分の私有地とすることができた。そのため薩摩の下級武士には、開墾した土地を売ったり貸したりして収入を得ていた人が多かった。
土佐など他藩でも似た制度のところはある。

半次郎さん、十代のころはすごい貧乏だったけど、二十代後半くらいからは大久保さん西郷さんより金回りよさそうである。
とくにオシャレにお金をかけていたという逸話には事欠かない。
なので、どっからその金が…と思っていましたが。土地転がしが成功したんかなあ…。

明治以降、困窮した士族を救うために、大久保さん以下薩摩出身の官僚が立てた計画にも開墾事業が多い。
昔その手の話を習った時には、武士を荒地に送って慣れない農業させて可哀相…と思っていたけど、実は維新前から多くの武士が開墾やってたからだったんですね。


【海水浴 (かいすいよく)】
子どものころ、この単語を覚えた時から疑問に思っていたこと。
なんで海で泳ぐのが「浴」なの?

実は19世紀に海水浴が始まった時は、海水に浸かるだけで健康にいいとされて、皆さん海の中でじっとしていた。
ヨーロッパでは更衣室が馬車みたいな形してて、浜辺から海の中に引っ張って行き、その陰で海水に浸かる。
というのも、女性は水に浸かる姿を人に見せてはいけないというのがマナーだったから。

でも岩倉使節団で日本人たちがイギリス王家御用達の海水浴リゾート地のブライトンを訪れた時には、そんなマナー知らないのでじろじろ女性を見て怒られたらしいです。

なんか思わず、小娘が「うーん、昔のスクール水着だとさすがに胸がきついなあ」なんて言いつつ海に入ろうとするのを、使節団の皆さんがおおっ!と覗こうとして、大久保さんが必死に隠そうとする図、とか想像しちゃいました。

その後、ブライトンをまねて日本でも大磯などに海水浴場が開かれます。これに尽力したのは、新選組の診察をしたので有名な松本良順先生。
ただし日本では海中に立てた鉄柱につかまって水に浸かる方式。着衣で入浴する温泉と同じノリなので、女性でも身を隠すことはなかったようです。


【かき氷 (かきごおり)】
かき氷の歴史はけっこう古く「枕草子」にすでに出てくる。
今のかき氷屋の元祖は幕恋にも出てきた水売り屋。幕末には砂糖水に白玉団子や、氷室に溜めておいた雪を入れて売る店があった。
一方で横浜では、開港直後から外国人の輸入氷屋がいて、明治2年には日本初のかき氷屋が開店する。
面白いのがまだこの当時は宇治と金時が別フレーバー扱い。イチゴ味とかはない。

さらに大々的に氷の商売を始めたのは中川嘉兵衛。薩摩藩邸や大久保さん別邸の近くで、日本初の牛鍋屋を開いたお方。
文久2年から氷を扱っていたが、箱館戦争まっ最中の五稜郭の堀でおいしい氷の研究を続け、明治4年から東京に運んで売り始め、大成功する。
函館氷は一躍有名ブランドとなり、大久保さんがウィーン万博に倣って始めた内国勧業博覧会の、第2回大会で一等を受賞した。
ついには中川屋をまねて不衛生な氷を売る店が現れ、内務省はかき氷屋の店先に産地を示すのぼりを掲げる事を義務付けた。現在かき氷屋の店先に必ず「氷」と書いたのぼり↓が出てるのは、その時の名残です。


つーわけで、直接的ではないけど、大久保さんはかき氷の発祥にもちょっとだけ関係している。
でも当時、氷水は胃腸の弱い人の天敵のように言われていたので、食べたかどうかは不明です。

鹿児島名物「しろくま」は、昭和になって生まれたものなので、幕恋のころにはありません。


【駕籠 (かご)】
「AはアップルのA」で、ちょいと作者の悪ノリで、天璋院(第13代将軍の徳川家定の正室)の駕籠というやつを出してみました。

写真の駕籠は、おそらく江戸での天璋院の輿入れに使用された駕籠↓


出典:スミソニアン博物館

昔は、もっと飾りがついていたそうです。派手っすねー。
(=・ ェ ・A;=)

うちの方に出てくるやつは、その2年前の花嫁修業時代に京都に一週間ばかり滞在する時に使ったという設定。なのでも少し地味です。

大久保さんと駕籠と言えば、油小路事件の後、御陵衛士の生き残りを新選組から匿って、奥女中の使う贅沢な駕籠を使って、二本松藩邸から伏見藩邸へ運んでいます。
身分の高い女性の駕籠は木戸(検問)でも中を覗かれないし、駕籠の横に護衛が付き添っててもおかしくないんで、一石二鳥。

西郷さんも寺田屋事件の後に、重傷の龍馬さんを伏見から二本松へ運ぶのに、同じことをしています。

駕籠は藩邸の乗物部屋(車庫)にあるやつで、運ぶ人も陸尺という藩邸の使用人。町駕籠は使わない。薩摩に限らず、大名屋敷の秘密主義はそのへん徹底してます。

まあうちの大久保さんの場合は、小娘を守る!という気持ちが突っ走りすぎてるだけの話ですが。


【鹿児島茶 (かごしまちゃ)】
鹿児島県の日本茶の生産量って、日本第2位なんだそうです。

日本茶(一番茶)の生産量ランキング
(平成22年、農林水産省データ)

全国   27,800t
静岡   14,500t (52%)
鹿児島   7,440t (27%)
三重    3,000t (11%)
京都    1,440t (5%)

静岡と鹿児島だけで全国の8割を占める。すごいなあ。

鹿児島県でお茶の栽培が盛んになったのは、開国直後の輸出用からだそうです。

大久保さん、お茶が好きなんだから、鹿児島茶の歴史になんか噛んでないかなあ…と思ったけど、直接の関係はなかった。

唯一、めっけたのは、1873年のウィーン万博で「茶商」として参加していた松尾儀助という人が、万博後に日本の物品を売るために官民合弁会社を作るのですが、ここで内務省が半分出資してる。ただし、ここの売り上げは美術品中心だったので、鹿児島茶より薩摩焼の方が売れたっぽいですけどね。


【下士 (かし)】
字のとおり、身分の低い武士のこと。
指す範囲は藩によって違うが、だいたいは藩主に御目見えできるかどうかで分けるっぽい。
土佐では上士と下士だが、薩摩では城下士と郷士と呼ぶ。

フィクションだと土佐では郷士などの下士が非常に差別されており、上士から理不尽に暴力・暴言を受けても耐えるしかない、みたいな話が出て来る。でも調べてみても、そういう史実は見つからなかった。(暴力事件はあるが、きちんと罰せられてる)
どうやら昭和になってから、ねつ造された話っぽいです。

史料によると土佐で他藩より厳しい差別があったのは、主に役職関係。上士は藩の役職に就いて出世できるが、下士はいくら才能があっても単純労働にしか就けないというもの。
他藩も状況は似てるが、当時は養子が盛んだったので、例えば桂さんのように才能のある子は身分の高い家にもらわれて行って出世できる。
土佐では上士と下士の間で縁戚関係を結ぶことは禁じられていたので、無理。
んで、これじゃいかん、有能な下士も取り立てねば、と頑張ったのが実は吉田東洋。

他に、下士は服装や住む場所も差別されていたとよく言われるが、こっちは他藩でも似たようなものである。


【加治屋町 (かじやちょう)】
現在、加治屋町にはいろんな人たちの生誕碑があるが、西郷さん兄弟、大山さん兄弟、東郷平八郎あたり以外の人々は、実は違う場所で生まれたらしいということがわかってきた。
大久保さんが高麗町から越してきたように、下加治屋町郷中や、加治屋町内の他の郷中で学んだ人は多いようである。
わざわざ越してきてまで学んだ人が多いのは、加治屋町内に薬丸自顕流の道場があったり、陽明学の伊東猛右衛門など、市井で有名な学者が住んでいたりして、郷中の中では特に教育水準が高かったせいらしい。

なんで皆で加治屋町で生まれたことになっちゃったのかは不明ですが、幕末から明治初期にかけては公式記録があまり残ってないし、報道や史料の正確性という概念も無くて、話が面白ければいいやという時代なのであまり気にしてはいけないっぽいです。


【カステラ (かすてら)】
江戸時代、カステラは薩摩の名物だった。龍馬さんも食べている。

大久保さんは、東京の家にカステラを常備していた。というのは、西郷さんが「大久保の家のカステラはうまい」と言って、よく訪ねて来たから。
西郷さんに来てほしいから食べ物で釣る、ってのが微笑ましい。

明治6年の政変で西郷さんと決裂する少し前、二人がぎくしゃくし出したころの話。

西郷さんが部下の高島鞆之助と大久保さんの家を訪ねると、いつもどおりカステラが出た。
西郷さんは大久保さんと話していたが途中から口論になり、もう帰ると言って外へ出た。
高島さんがあわてて追いかけると、西郷さんが玄関を出たところで、まだだいぶカステラが残ってたから、取って来てくれと言う。
んで高島さんが部屋に戻って、西郷さんに頼まれたからカステラを持って行きますと大久保さんに断ると、大久保さんはろくに返事もしてくれない。
高島さんがカステラ持って西郷さんのところへ戻ると、西郷さんは嬉しそうに笑った。
その後、西郷さんは大久保さんの家に行かなくなった。

…よくわからん話ではあるが、西郷さんと大久保さんの間には言わなくても通じる何かがあったんだろなあ…と思わせるエピソードではある。
西郷さん、高島さんをわざわざ部屋に戻して、大久保さんに「西郷、戻って来い」とか言って欲しかったのかな?


【語り部 (かたりべ)】
昔話や神話伝説のたぐいを、後世に伝えるために、皆に聞かせる職業・役割のひと。
口承文学の担い手。
転じて、二十世紀の日本においては、太平洋戦争の被害を子供たちに聞かせる人たちのことも、語り部と呼んだ。

ま、要するに「過去の」「昔の」話を伝えるってのが、ポイント。

そこで謎が生じる。
大久保さんのキャッチコピーの「冷徹な愛の語り部」というのは、字義どおりに解釈すると「昔の愛の話を、後世に語り伝える人」の意味である。
単純に「愛を語る人」という意味ではない。

「昔の」愛の話とは、何のことか?

もっとも素直な解釈としては、大久保さんは攻略キャラではないし、立ち絵つきキャラの中では最も長生きするので、他ルートの話を明治になってから誰かに(誰だよ?)に聞かせる人という意味と取れる。
大久保さんのシラノ・ド・ベルジュラック的側面を強調したコピーと言えます。
(シラノというのは、ヒロインを誰よりも愛してるのに、他の男との恋路を応援して、陰でいろいろ手助けしちゃう人のことです)

しかし、もし大久保ルートで「語り部」するとなれば…小娘との関係が「昔の話」になるっつーことで、つまり、絶対別れるって意味になる。
なんか、ものすごく意味深なコピーなのです。


【合羽 (かっぱ)】
幕恋とは直接関係ないけど「八重の桜」で西郷さんの着ていたマントがやたらかっこよかったので調べてみた。
どうやら桐油合羽などと呼ばれる防水紙製の旅行着のようである。当時、参勤交代する下級武士や中間が着ていたもの。
布では出ないよれよれ感が、かえって男っぽくていいっスね。柿渋が使ってあるだけに渋い。

それほど高いものではないし、紙なのでかさばらないので、江戸時代の大きな街道では、コンビニのレインコート感覚であちこちに売られていた。

1854年の早春に西郷さんが初めて江戸に来てすぐ、4月5日には象山先生が捕まっちゃうので、ドラマの中で、西郷さんが江戸に着くなり旅装で象山先生を訪問…って感じの演出になってるのは、時代考証的には正しいかも。

ちなみに合羽の語源はポルトガル語かスペイン語のcapa。ケープと語源は同じだが、丈の長いマントをさす。
こういうやつ↓


この時代のマントと言えば、スコットランドのインバネスなども、すでに登場はしている。
ただし、日本で大流行するのは明治になってから。
大久保さん、似合いそうだから着せたいんですけどねえ…。グラバーさんあたりは持ってるかも。


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