用語集

【か】 26件

【カツオ (かつお)】
安政5年(1858年)から翌年にかけて、大久保さん、仲間と何度か脱藩を計画する。んでもって、安政6年(1859年)11月、カツオ漁船を用意して海路で脱藩をしようとしたところ、藩主父子から「誠忠の士」って手紙をもらって、思いとどまる。…って話がある。

で、思った。
11月にカツオ漁船ですか?
カツオっつーと「目には青葉山ほととぎす初鰹」ってくらいだから6月くらいのイメージがある。
漁期でもないのに、カツオ漁船が海に浮かんでたら、怪しまれるじゃん…と思った。

なので調べてみると…鹿児島では、11月はカツオの旬らしいです。枕崎ぶえん鰹っていう地元のブランド鰹があるんですが、このブランドの年1回のイベントが10月下旬。

というのも、カツオは回遊魚なので、
初鰹(北上)…2〜3月、南九州→9月、北海道南部
戻り鰹(南下)8月、宮城沖→10月〜11月、南九州
と、地方によって旬の時期がかなり違う。
なので「目に青葉…」は江戸のカツオの話。

内閣府のデータによると2008年のかつおぶし生産量は鹿児島県が全国シェアの70.4%でダントツ1位。
大久保さん、いかにもお国柄という脱藩手段を選んだっつー話ですね。

ちなみに当時のカツオ漁船は「七反帆」と言われるものが多かったらしいですが、大久保さん達が用意したのがそれだったかどうかは不明。


【神奈川往還 (かながわおうかん)】
横浜と八王子を結ぶ街道。八王子の先は甲州街道で、7km先の次の宿場は土方さんの故郷の日野。

この辺はもともと養蚕が盛んで、絹織物も多く作られていた。(土方さんが呉服屋に奉公したのも、何か関係あるのかな?)
八王子は多摩地域や、関東甲信越の生糸の集積地として栄えていたが、1859年の横浜開港後はさらに町が発展し、大商人たちが活躍した。
この道は横浜の外国人たちのちょっとした小旅行ルートでもあり、サトウ、ベアト、シュリーマンなども訪れた。

多摩は江戸に近いため商品経済が発達して豪農も多く、強盗などから自衛するために刀を持つことが許されていた。
幕府や旗本の領地が細かく入り組む土地で、ただでさえ武士の支配が行き届かない上、わずかばかりいる役人は金で武士身分を買った地元農民だった。
要するに江戸時代のうちから、サムライが支配せず、地元の農民や商人たちが自治する土地だったわけだ。

しかし、生糸は日本の輸出額の大半を占める戦略的商品。維新後、明治政府は当然ながら産地を厳格に管理しようとする。
横浜から運ばれてくる新聞などでも自由思想に触れていた地元民はこれに反発。明治10年代には自由民権運動が盛んに行われることになる。

土方さんは、こういう土地で生まれ育った。
どう考えても江戸時代の方が地元民は自由だったわけで。これじゃ倒幕に賛成するわけないよね。


【神奈川県立歴史博物館 (かながわけんりつれきしはくぶつかん)】
横浜の関内にある歴史博物館。
扱う内容は主に幕末・明治の横浜の歴史。名前が紛らわしいが、間違えて「横浜市立」歴史博物館の方に行かないように。あっちは弥生時代の遺跡である。

この博物館は建物自体が明治の建築の代表として、国の遺跡になっている。
もともとは横浜正金銀行という貿易と為替に特化した大手銀行。後に東京銀行→三菱東京UFJ銀行へと移行。

この銀行の意義は横浜が貿易都市として発展していく上で、金融の中心を担ったことも大きいんですが…。
もうひとつ、大正12年(1923年)に関東大震災で横浜中心部が壊滅した後、復興資金の調達で中心的役割を果たした。
この時に横浜本店支配人だったのが、大久保さんの末息子(8男)の利賢さん。ロンドン店支配人から栄転して半年後のことです。

関東大震災は三浦半島のちょっと先が震源なので、横浜の被害はすさまじかった。
本店の建物は石造り部分は倒壊はしなかったんですが、町全体が火の海になってしまったので、類焼により内部と天井ドームを焼失しました。
利賢さんは震災当時、建物内にはいなかったっぽいですが、何してたかは不明。


【神風 (かみかぜ)】
1863年の薩英戦争って、薩摩がボロ負けしたように描かれていることが多いけれど、実は英国軍の方が死傷者は多い。しかも旗艦ユーライアス号の艦長・副長が戦死している。

大砲の射程距離が薩摩側1km、英国側4kmなのに何故?と思ったら…。
この時って、台風が来てたんですね。で、鹿児島湾は深すぎて錨が使えず、英国艦隊の船は強風で、薩摩の砲台から365mくらいのとこまで流されちゃった。完全に撃たれ放題。
英国船の大砲はなまじ射程が長いので薩摩の砲台を飛び越えちゃって、当たらない。

また、嵐で揺れまくる船の上で砲撃準備したら、部品がズレちゃって、アームストロング砲1門が暴発して吹き飛んだ。

要するに、いつものパターンで、日本は台風のおかげで勝っている。
で、気になって調べてみると…(以下はグレゴリオ暦)

1853年7月8日 ペリー浦賀来航
1863年8月11日 薩英戦争開始
1865年9月5日 四国艦隊下関砲撃

なんで外国って、いつも台風シーズンに攻めて来んの?

で、わかったのが、東シナ海は夏になると南西の季節風が吹き、冬は逆なので、昔から中国から日本に来る船は夏を選ぶという事実。
黒船も蒸気帆船だから、季節風を利用しないと長距離の航海は難しい。

つまり、外国が攻めて来るから神風が吹くんじゃなくて、当時は台風シーズンじゃないと外国は日本を攻めて来れなかったってことなんですね。


【亀山社中と海援隊 (かめやましゃちゅうとかいえんたい)】
素朴な疑問。亀山社中と海援隊の違いって何だろう?
調べてみたら、ちゃんと書いてあるものは意外に少なかった。
つか、亀山社中の史料自体、かなり少ないらしいです。

非常に大ざっぱにいうと、この2つはスポンサーが違う。

亀山社中…薩摩藩が出資した私営商社
海援隊…土佐藩の外部団体

さらに大ざっぱに2つの団体の目的の違いを言うと

亀山社中…薩摩が長州に武器を横流しするために作ったダミー会社
海援隊…土佐藩を外部から支援する商社

つまり、亀山社中は薩長同盟の交渉のために作られた。
でも同盟が成立すると桂さんや伊藤さんは薩摩藩士と名乗って直接外国商人と取引するようになったので、亀山社中は要らなくなった。
経営が苦しくなって困っていた時に、声をかけて来たのが後藤さん。
で、後藤さんと西郷さんが容堂公に頼んでくれて海援隊ができ、脱藩の罪も許してもらう。
んで海援隊では、土佐藩に倒幕のための武器調達とかしてたようです。

幕恋は最後の数話を除き、亀山社中のころの話。
龍馬さんが大政奉還を唱えるのは、海援隊になってから。
なので、幕恋で龍馬さんが大政奉還の話をするのは、すごい変なんだけど…。
まあそこは、深く追究してはいけない。


【火薬 (かやく)】
よくギャグで、火薬を弄んでいると爆発して、髪の毛が焦げ、眉毛が無くなるってシーンがあります。
あれの元ネタかどうかは知りませんが、実際にあれをやったお方が、半次郎さん。

13才のころ、半次郎さんはなぜか火薬にとても興味を持ち、兄の持っていた火薬でしょっちゅう遊んでいた。
兄は危ないと注意したが聞かないので、見つからないように隠しておいた。
ところが、兄が家を留守をして帰ってみると、火薬が無くなっていて、半次郎さんの眉毛も無くなっている。髪の毛もちょっと焦げてる。
問い詰めてみたけど、あくまでもとぼけ通す。

兄は何だかおかしくなってきて、どう考えても相当痛いだろうに、強情に何もなかったと言い張って手当もさせないんだから、まあ罰は受けたようなものだろうと、それ以上追及しなかった。

なんで火薬があったのかなと思いましたが、当時は畑を荒らす猪などを追い払うために火縄銃を使ったり、大きな切り株を爆破したり、農作業にけっこう火薬使ってたみたいです。

しかし半次郎さんはそこまでして、火薬で何がしたかったのだろう…。


【仮主人 (かりしゅじん)】
身元保証人みたいなもの。
海音寺潮五郎の「寺田屋騒動」にしか出てこないので要確認。

薩摩の町人が藩を出て京都などに定住したり、藩邸に出入りする場合、藩士の家来としてそうしているという名目が必要だった。
この身元保証人を薩摩では仮主人と言ったらしい。
幕府や他藩で請人(うけにん)というのと同じかな?よくわかんないけど。
陪臣である田中新兵衛の場合は、海江田武次、藤井良節、仁礼源之丞が仮主人になった。

小娘の場合は元々薩摩の人間でないので、たぶん大久保さんが仮主人になる必要はないと思うけど、どうなんだろ。


【かるかん (かるかん)】
薩摩のお菓子。
自然薯や長芋などを材料にしていて、ふわふわしておいしい。
キャットフードではない。

元禄ころからあったらしいが、今の形になったのは幕末。現在も鹿児島にある老舗の明石屋が、できたころ。
明石屋は、江戸の風月堂の紹介で明石の菓子職人を斉彬公が招聘し、島津家の御用菓子司となったもの。

なんで菓子職人を招いたかというと、実は軍事目的。
当時、黒船に対する軍備増強の一環として、日持ちして栄養のある食糧の研究がされていた。

まあ確かに、おにぎりより米粉の蒸しパンの方が日持ちする。
これに薩摩の山々に自生する山芋を組み合わせて、さらに栄養価を高めたのが、かるかん。

ただ、かるかんも一週間くらいしか持たないので、兵糧用には蒸餅(むしもち)という乾パンの一種が作られた。
その後、明治元年(1868年)には、薩摩藩が東京の風月堂に黒ゴマ入り乾蒸餅(ビスケット)を作らせ、戊辰戦争の兵糧とする。
これが、日本で大々的にビスケットが市販されるようになるきっかけになる。

つまり、小娘がお菓子を焼いて、大久保さんに出してあげると…。
大久保さんはつい、幕府との戦にこの菓子は使えるだろうかと、ぶっそうなことを考えちゃうわけですね。
小娘には言わないけど。


【カレー (かれえ)】
日本にカレーが広まったのは、明治時代、日本海軍が兵士の食事として出したのがきっかけ。
明治初頭の海軍には、薩摩藩出身者が非常に多く、カレー普及にも一役買った。

当時は食事というと、とにかく大量にご飯だけを食べる。
玄米でなく白米だと栄養が足りず、脚気になる。
ビタミンが発見されるのは20世紀なので、当時は脚気の原因が分からず、毎年たくさんの人が亡くなった。

でも、どうやら脚気予防のためには麦飯や、野菜や肉を多く使う洋風料理がいいらしいというので、レシピを工夫した結果、生まれたのがカレーライス。

この海軍カレーの誕生にかかわった高木兼寛という軍医さん、幕恋の時代は薩摩藩医のお弟子さんでした。

ところで、幕恋当時には、イギリスでカレー粉はすでに市販されていて、家庭向け料理本にもレシピが載るくらい、人気料理だった。
タマネギが無いのはつらいけど、英国公使館や商館経由でカレー粉が入手できれば、小娘にもカレーは作れる。

で、小娘、薩摩藩士の皆さんに「野菜食べなきゃ栄養取れないですよー」とか何気なく言いそうですが…。
当時は栄養=肉と米、って発想なので、それを聞いたら高木さんは驚いて、真剣に研究を始めそうだ。

そして小娘の食い意地のおかげで、脚気の原因が判明し、何万人もの人が助かったのでした…とかなんないかな、と妄想してしまいました。


【川長 (かわちょう)】
江戸柳橋にあった料亭。大久保さんが畳回しをやった場所。
酔った勢いで周布政之助(高杉さんの上司)が剣舞を始め、薩摩藩士に斬り付けそうになった時に大久保さんが
「薩摩の畳踊りをお目にかける」
とやにわに畳を引っぺがして回し始め、斬り合いを未然に防いだという事件ですが、んなふざけた芸をするんじゃカジュアルなお店かなあと思ったら、当時の料理屋番付(ランキング)で常に1〜3位に入る超高級店でした。現代ならミシュラン3つ星クラス。
柳橋だから宴席に芸者さんもいたかも。
考えてみれば、長州藩の重臣を招いて接待したんだから当然か。
この日の宴会は、何日か前に木挽町の酔月楼(水月と書いてある資料もある)で長州から接待されたののお返し。酔月楼も同じくらいの高級料亭。
残念ながらどちらの店も現存しません。
酔月楼は長州と薩摩の上屋敷に近い。川長はそうでもないんで、接待なら築地あたりから屋形船仕立てて送迎したんだろうな。そすっと店に着くころにはすでに相当酒が入ってた気がする。


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