大久保さん年表

江戸時代の月日は注のない限り旧暦です

◆文化5年(1808年)◆
近思録崩れ(薩摩藩お家騒動)
祖父の皆吉報徳も処分を受け蟄居
フェートン号事件(8月15日)
この前後より外国船の上陸や暴行事件が増え始める

◆文政7年(1824年)◆
薩摩領宝島で英国船が略奪、銃撃戦に(8月)

◆文政8年(1825年)◆
外国船打払令

◆文政10年(1828年)◆
西郷小吉(後の隆盛)誕生(12月7日)

◆文政12年(1829年)◆
父の利世、沖永良部島から戻る(4月17日)
武市鹿衛(のちの半平太)誕生(9月27日)

◆文政13年(1830年)◆
父の利世の島妻に、娘タケが産まれる
誕生 幼名は正袈裟(8月10日)

◆天保4年(1833年)◆
天保の大飢饉始まる(〜1839年)
和田小五郎誕生(後の桂小五郎、木戸孝允)(6月26日)

◆天保6年(1835年)◆
土方歳三誕生(5月5日)
肝付尚五郎(後の小松帯刀清廉)誕生(10月14日)
山本山、宇治で玉露を発明

◆天保6年(1836年)◆
坂本龍馬誕生(11月15日)

◆天保8年(1837年)◆
父の利世、沖永良部島再赴任(4月26日)
郷中教育受け始める
乾猪之助誕生(のちの板垣退助)(4月17日)
モリソン号事件、米国船薩摩来航(7月)
祖父の皆吉鳳徳死去

◆天保9年(1838年)◆
岡田以蔵誕生(1月20日)
中岡福太郎(後の慎太郎)誕生(4月13日)
甲突川が氾濫し加治屋町に浸水被害(4月17日)

◆天保9年(1839年)◆
中村半次郎(後の桐野利秋)誕生(12月)

◆天保10年(1839年)◆
西郷、右腕にケガをし、不自由になる
高杉晋作誕生(8月20日)
アヘン戦争開始(11月3日)

◆天保12年(1841年)◆
土佐で庄屋同盟結成、天皇の下での四民平等唱える

◆天保13年(1842年)◆
琉球使節団、江戸上りの途中で琉球館に滞在(6〜9月)
父の仕事関係で琉球館に住み始める?
アヘン戦争終結。南京条約で香港が英領に(8
月29日)


◆天保14年(1843年)◆
英国船サマラン号、琉球来航(12月1日)

◆天保15年(1844年)◆
元服 正助利済に改名
西郷小吉、吉之介隆永に改名
西郷、郡方書役助になり迫田利済の下で働き始める
斉藤一誕生(1月1日)
藤堂平助誕生
フランス船アルクメーヌ号、琉球来航(3月11日)
フランス人宣教師フォルカードが那覇に滞在開始
その後、英仏の船がそれぞれ数回にわたり琉球を来訪し交易と布教を要求

◆弘化元年(1844年)◆
薩摩で山元荘兵衛がクスノキの人工栽培に成功

◆弘化2年(1845年)◆
胃を患い、数年間武芸修行を休む

◆弘化3年(1846年)◆
記録所書役助になる
第120代仁孝天皇死去(2月21日)
英国船スターリング号、琉球来航(4月30日)
宣教師ベッテルハイム那覇に滞在開始(4月30日)
朝鮮でカトリック弾圧、朝鮮人宣教師逮捕
フランス軍艦が釈放を要求し洪城に接近(7月)
これを受けて長州藩が洋式銃を採用
フランス軍艦が大隅半島を勝手に探検してセシール半島と名付ける
このころ薩摩揚げ(つけあげ)が琉球から伝わる

◆弘化4年(1847年)◆
西郷、下加治屋町郷中の二才頭になる
高麗橋が石橋に架け替えられる
薩摩藩、琉球にて英仏との通商開始
かるかんの老舗、明石屋開業

◆嘉永元年(1848年)◆
年始客相手に一日中碁を打つ。ボロ負け(1月4日)
御家譜編集書役になる(1月13日)
藩学助教の儒学者、横山安容に入門(1月19日)
米墨戦争終結、カリフォルニアが米領に(2月2日)
米国西海岸でゴールドラッシュ
米国の太平洋進出政策始まる
成田正右衛門から洋式砲術を習う(6月9日)

◆嘉永3年(1850年)◆
お由羅騒動
父の利世、捕縛され遠島処分に決定(4月8日)
謹慎処分になる
父、鹿児島から喜界島へ出帆(10月4日)
西郷、大久保ほか有志による『近思録』輪読会(後の精忠組)発足
中国で太平天国の乱勃発

◆嘉永4年(1851年)◆
島津斉彬、第11代藩主に(2月)
森山與兵衛に14両借りる(6月28日)
ジョン万次郎、琉球より帰国、薩摩へ(7月)

◆嘉永6年(1853年)◆
御蔵役になる(5月)
ペリー那覇来航(4月19日)
ペリー浦賀来航(6月5日)
第12代将軍徳川家慶死去(7月27日)

◆安政元年(1854年)◆
西郷、斉彬の参勤交代について鹿児島出発(1月)
西郷、初めて江戸に入る(3月)
父の利世の赦免が決定(4月8日)
森山の借金が返せず待ってくれと頼む(7月30日)
武市、高知城下に道場を開く
ロシア軍艦ディアナ号、大坂に進入(9月)
長州藩、瀬戸内海防備のため軍艦採用を検討

◆安政2年(1855年)◆
篤姫、家定と結婚(2月)
父の利世、喜界島から戻る(3月14日)
中岡、武市に師事を受け始める(8月7日)
西郷家、上之園町に引っ越す(12月)

◆安政3年(1856年)◆
アロー戦争開始(10月8日)

◆安政4年(1857年)◆
西郷と共に徒目付になる(10月1日)
初めて薩摩を出る(11月1日)
熊本で長岡監物、津田山三郎と会う

◆安政5年(1858年)◆
井伊直弼、大老に就任(4月23日)
安政の大獄始まる(4月)
咸臨丸が薩摩を訪問(5月11日〜20日)
大山弥助、オランダ人に石を投げて斉彬公に怒られる
斉彬公、勝と意気投合
日米修好通商条約締結(6月19日)
第13代将軍徳川家定死去(7月6日)
島津斉彬死去(7月16日)
長崎でコレラが流行するが薩摩は無事
井伊大老、諸藩の志士を捕縛(9月)
西郷、月照と入水し、ひとり生き残る(11月)
西郷、奄美大島に潜居
突出(脱藩&井伊直弼襲撃)計画を仲間と何度か試みる
島津茂久が薩摩藩主となる(12月28日)

◆安政6年(1859年)◆
久光の碁敵の乗願和尚に碁を習い始める
乗願が久光に貸した本に書きつけを挟んで意見を伝える
久光、このころから大久保に目をつけ始める
横浜開港(7月4日)
横浜でロシア軍人殺害事件(7月20日)
これを皮切りに外国人襲撃事件が続発
島津斉興死去(9月12日)
このころ、藩主父子に「誠忠士」と慰撫され突出を断念する(11月5日)

◆万延元年(1860年)◆
桜田門外の変(3月3日)
初めて久光に会う(3月11日)
勘定方小頭格になる(閏3月)
アロー戦争終了。北京条約(10月18日)

◆文久元年(1861年)◆
ロシア軍艦が対馬に無断上陸し租借を要求(2〜3月)
江戸で土佐勤王党結成(8月)
土佐で坂本・中岡らも土佐勤王党に加盟(9月)
御小納戸役になる(10月23日)
この辺から薩摩藩政に関わるようになる
家格が一代新番になる
久光から一蔵という名をもらい、利済一蔵になる

◆文久2年(1862年)◆
初めての京都訪問
西郷、大島から鹿児島に戻る(2月12日)
西郷、島津久光を地ごろ(田舎者)と言い不興を買う(2月15日)
上海で農民中心の西洋式軍隊(常勝軍)が太平天国軍に圧勝(2月〜)
青砥稿花紅彩画(白浪五人男)初演(3月)
坂本龍馬、脱藩(3月24日)
土佐で吉田東洋暗殺(4月8日)
兵庫の海岸で西郷に「おいと一緒に死にもんそ」と口走る(4月9日)
薩摩へ船で護送される西郷を見送る(4月11日)
久光公に進退伺いを提出(4月11日)
久光一行、伏見藩邸に入る(4月13日)
久光一行、京都錦小路藩邸に入る(4月17日)
半次郎、久光一行と別れて京都残留
精忠組過激派の説得を試みるも失敗(4月20日)
寺田屋で薩摩藩粛清事件(4月23日)
このころ岩倉さんと初めて会う(5月6日)
御小納戸頭取になる(5月20日)
この辺から久光側近になる
高杉・五代ら上海視察(5月6日〜7月7日)
このころ京都薩摩藩邸に吉田東洋暗殺犯を匿う
西郷、徳之島に遠島(6月6日)
母方の祖母が死去(6月6日)
久光一行、江戸入り(6月7日)
長州の周布らとの宴席で畳回しを披露(6月12日)
勅使大原と謀り、老中板倉らを暗殺すると脅す
文久の改革(6月)
参勤交代の緩和により、女性の国内移動がかなり自由になる
夏ごろ、コレラとはしかが大流行する
祖母の訃報が届き忌引(7月4日〜6日)
田中新兵衛ら、島田右近暗殺(7月20日)
いわゆる「天誅」の最初の事件となる
薩摩、蒸気船永平丸を英国から購入し、横浜で受け取り(8月14日)
久光、帰国に蒸気船を使おうとするが、幕府の許可降りず
岩倉、官を辞す(8月20日)
生麦事件発生。対応にあたる(8月21日)
幕府には、知らぬ存ぜぬで押し通して、さっさと出立する
武市、藩主山内豊範とともに京都入り(8月25日)
武市らを中心に岩倉排斥運動、天誅を匂わす
久光公について京都に戻る(閏8月7日)
西郷、沖永良部島に遠島(閏8月14日)
久光公とともに京都を出る(閏8月23日)
御用取次見習になる(閏8月30日)
二本松薩摩藩邸建設開始(9月)
岩倉、洛北の岩倉村で蟄居生活開始(10月4日)
薩摩藩、幕府より琉球通宝鋳造許可を得る
小松さんと共謀して贋金作る
吉井さんと鹿児島を出て京都へ(12月9日)
京都着(12月20日)
京都を出て江戸へ(12月25日)

◆文久3年(1863年)◆
江戸着(1月3日)
江戸を出て京都へ(1月9日)
5人委員会(後の国際赤十字委員会)発足
乗船していた蒸気船永平丸が明石沖で座礁する(1月23日)
御側役になる(2月10日)
御小納戸頭取は兼任
徳川家茂上洛(3月4日)
二本松薩摩藩邸竣工(4月)
父の利世、死去(5月9日)
朔平門外の変、姉小路公知暗殺(5月10日)
長州藩が外国船を砲撃(5月10日)
暗殺犯として田中新兵衛が捕縛される
奇兵隊結成(6月7日)
横浜山手に英仏軍駐屯開始(6月)
薩英戦争で鹿児島城下一部焼失(7月2〜4日)
指揮・交渉の一端を担う
屋根に上って敵艦を見ようとして足を滑らせて転ぶ

この後、薩摩とイギリスが急接近
八月十八日の政変
久光について鹿児島を出て京都へ(9月12日)
武市瑞山捕縛(9月21日)
中岡慎太郎脱藩(9月21日)
京都と江戸で政変の後処理に奔走する
薩英戦争講和(10月5日)
老中板倉を脅して薩英戦争の賠償金7万両の貸付獲得
薩英戦争賠償金支払い(11月1日)
この時ユーライアラス号にミカンを贈る

◆元治元年(1864年)◆
久光公、朝廷参与となる(1月13日)
西郷、鹿児島に戻る(2月28日)
岡崎薩摩藩邸開設
岡田以蔵捕縛(4月)
京都で中岡と半次郎が会う(4月16日)
久光について京都を出発(4月18日)
鹿児島に戻る(5月9日)
薩摩の藩政改革と技術振興策を次々と実施
村田勇右衛門に集成館で国産銃を研究させる
大山巌らを江戸の江川塾に送り砲術研究させる
ジョン万次郎を開成学校教授として招聘
伊東四郎左衛門を勝海舟の海軍塾に送る
池田屋事件(6月5日)
禁門の変(7月19日)
どんどん焼けの大火で京都北東部の市街焼失
三条と伏見の長州藩邸、錦小路薩摩藩邸焼失
この後、長州藩、朝敵となる
中国にて太平天国の乱終結(7月19日)
英仏蘭米の連合艦隊、下関砲撃(8月5〜7日)
龍馬、勝の使いで初めて西郷に会う(8月)
下関講和成立、長州代表は高杉(8月18日)
第一次長州征討、西郷により戦闘回避
母の福、死去(8月24日)
二十三士事件、中岡の義兄の川島総次郎斬首(9月5日)
西郷、勝と初めて会う(9月11日)
中岡、五卿の処遇をめぐって小倉で西郷と会見(12月4日)
功山寺挙兵、高杉、長州の実権握る(12月15日)

◆慶応元年(1865年)◆
乾退助、武市の減刑を主張し大監察解任(1月)
前島密を開成学校教授として招聘(1月)
改諱して一蔵利通になる(1月下旬〜5月)
小蝶丸で鹿児島を出帆。吉井・税所も同行(1月25日)
長崎で薩摩藩聞役の汾陽次郎右衛門と会談(1月27日)
博多で福岡藩世子の黒田慶賛に謁見(1月29日昼)
福岡藩士から紹介され中岡慎太郎と初めて会う(1月29日夜)
博多発。吉井は大宰府へ(2月2日)
途中で御手洗・兵庫に停泊して京都着(2月7日)
京都出発(3月22日)
薩摩スチューデント、串木野から出航(3月22日)
大坂から蒸気船で鹿児島着(4月3日)
米国南北戦争終結、武器の価格が急落(4月8日)
リンカーン暗殺(4月18日)
東日本一帯で米凶作
龍馬、初めて薩摩を訪問(5月1日)
龍馬に着物と刀と政治交渉術の助言を与える
岡田以蔵処刑(5月11日)
鹿児島から陸路で京都へ出発(5月21日)
龍馬、大宰府で三条実美に謁見(5月24日)
大宰府訪問?(5月26日)
京都着(閏5月10日)
武市瑞山切腹(閏5月11日)
薩摩藩の支援で亀山社中発足(閏5月)
徳川家茂上洛、以後、大坂城滞在(閏5月22日)
福岡藩で乙丑の獄(6〜10月)
薩摩で廃仏毀釈始まる
長州藩主、薩摩藩主父子に蒸気船周旋依頼の手紙(9月8日)
また京都へ(9月)
英仏蘭海軍による兵庫開港要求事件(9月15日)
第二次長州征討の勅命(9月21日)
福井へ行き松平春嶽に建言(9月27日)
桂小五郎、藩主より木戸姓を賜り、木戸貫治に改名(9月29日)

◆慶応2年(1866年)◆
京都石薬師通に自宅を構える(1月)
自宅に品川弥二郎など長州藩士を隠れ住ませる
薩長同盟(1月21日)
京都発、鹿児島へ(1月21日)
寺田屋で龍馬襲撃(1月23日)
龍馬、蘭医木原泰雲の治療を受ける
龍馬、二本松藩邸に移る(1月30日)
京都に戻る(2月)
西郷、龍馬らを連れて薩摩へ(3月)
英国策論、発表(3月16日)
海外渡航解禁(商用・留学のみ)(4月7日)
兵庫の西宮で打ちこわし発生(5月3日)
大坂でも打ちこわし発生(5月14日)
第二次長州征討に反対し、薩摩藩出兵拒否(5月28日)
老中板倉に、風邪をひいて耳が聞こえないと言い張る
第二次長州征討開戦(6月7日)
パークス、薩摩を訪問し藩主父子と対面(6月16〜20日)
中岡小傳次(慎太郎の父)86才で死去(6月25日)
第14代将軍徳川家茂死去(7月20日)
台風で日本各地に被害
台風による家屋倒壊で京都の死者30人強(8月7日)
小松の長男、安千代誕生(9月18日)
木戸貫治、木戸準一郎に改名(9月)
小松、腰や胸の痛みを訴え始める(11月)
岩下方平らパリ万博へ出発(11月9日)
徳川慶喜、将軍に(12月5日)
第121代孝明天皇死去(12月25日)

◆慶応3年(1867年)◆
長州征討完全終結(1月)
海援隊発足、土佐藩の支配下へ(4月)
久光公、京都着(4月12日)
いろは丸事件(4月23日)
四侯会議開催(5月)
高杉晋作死去(5月17日)
鹿児島紡績所完成(5月)
西郷・小松と倒幕への藩論変更を決める(5月25日)
このころ紡績・製糖・鉱業など外国人技師を薩摩に招聘
近藤と土方、武士となる(6月)
久光公、長州に正式に倒幕の意志を告げる(6月16日)
薩土盟約(6月22日〜9月)
陸援隊発足(7月)
ええじゃないか騒動(7月〜翌年4月)
半次郎ら、赤松小三郎を殺害(9月3日)
三藩盟約(薩長+広島)(9月8日)
久光公、大坂を出て薩摩へ(9月15日)
長州を訪問し倒幕に向けて挙兵の打ち合わせ(9月17日)
倒幕の密勅下る(10月14日)
大政奉還(10月15日)
岩倉、大久保・西郷・小松の暗殺計画ありと警告(10月16日)
土佐で容堂公に上洛促す(11月12日)
茂久公、薩摩発(11月13日)
龍馬暗殺(11月15日)
中岡慎太郎死去(11月17日)
半次郎、葬式帰りに大久保宅に泊まる
油小路事件(11月18日)
御陵衛士残党、大久保宅に逃げ込む(11月19日)
半次郎、御陵衛士残党を二本松藩邸に匿い事情聴取
岩倉に龍馬暗殺犯は新選組に相違ないと手紙を書く
茂久公、京都着(11月23日)
神戸開港(12月7日)
参与になる
朝議に直接参加できるようになる
小御所会議(12月9日)
王政復古のクーデター(12月9日)
江戸薩摩藩邸焼き討ち事件(12月25日)

◆慶応4年(1868年)◆
鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争開始(1月3日)
戦のさなか、余裕こいて御所で昼寝して公家達を安心させる
伏見薩摩藩邸焼失
徳川征討の朝令が発せられる(1月7日)
軍参謀に任ぜられるが、岩倉さんに泣かれて断る(1月8日)
内国事務掛と徴士に任ぜられる(1月17日)
大坂遷都を建言(1月18日)
総裁局顧問に任ぜられる(1月27日)
神戸事件(4月11日)
大坂行幸中の明治天皇に初めて拝謁(4月19日)
記録的な長雨で大井川28日間川留め(閏4月〜5月)
江戸在勤を命じられる(5月24日)
沖田総司死去(5月30日)

◆明治2年(1869年)◆
土方歳三死去(5月11日)
版籍奉還(6月17日)
参議になり「大久保卿」になる(7月22日)
西郷吉之助、友人のカン違いで西郷隆盛になる(8月)
木戸準一郎、木戸孝允に改名
武士階級が士族になる

◆明治3年(1870年)◆
小松帯刀死去(7月20日)

◆明治4年(1871年)◆
戸籍法制定(4月4日)
一蔵の通称を止め、大久保利通になる
中村半次郎、復姓して桐野利秋に
大蔵卿就任(6月27日)
断髪令(8月9日)
これにより、幕府の洋装禁止令が廃止される
廃藩置県(8月29日)
岩倉使節団出発(11月12日)

◆明治5年(1872年)◆
全権委任状獲得のため日米往復(2月12日〜6月17日)
富岡製糸場開所(10月4日)
英国ビクトリア女王と謁見(11月5日)
礼服が正式に洋装になる(11月12日)

◆明治6年(1873年)◆
新暦に移行(1月1日)
徴兵令施行(1月1日)
国民皆兵制。武士階級の事実上の消滅。
ベルサイユ宮殿で新年を祝う(1月1日)
ビスマルクより宴に招待(3月15日)
ベルリンより帰国の途に(5月26日)
横浜着(3月28日)
岩倉使節団帰国(9月13日)
明治六年の政変により、西郷辞職(10月24日)
西郷と口ゲンカして「おいは知らん」とすねる
内務省設立、初代内務卿になる(11月10日)
浜寺の松林を和歌詠んで救う

◆明治7年(1874年)◆
赤坂食違見附(紀尾井坂上)で岩倉具視襲撃(1月14日)
佐賀の乱(2月18日)
大砲の弾の飛び交う中を平然と歩き回り、周囲をあわてさせる
台湾出兵(5月22日)
廃刀令(3月28日)
お琴病死(8月27日)

◆明治10年(1877年)◆
金原明善に会い、天竜川治水工事を支援
西南戦争勃発(2月)
木戸孝允死去(5月26日)
西郷隆盛、桐野利秋死去(9月24日)
目に涙をためて家の中を歩き回り、鴨居に頭をぶつける

◆明治11年(1878年)◆
紀尾井坂の変で暗殺(5月14日)
死後、西郷の最後の手紙を懐に入れていたことがわかる
正二位右大臣を贈位され「大久保公」になる(5月15日)
蒼凛高校開校(9月26日)

◆明治17年(1884年)◆
華族令により大久保家と木戸家が侯爵に(7月7日)

◆明治43年(1910年)◆
日下部鳴鶴、大久保利通神道碑を書く

◆昭和43年(1968年年)◆
日本棋院から囲碁名誉7段を贈られる


[TOPへ]
[カスタマイズ]




©フォレストページ