ベイカー街
□【Deux café au lait,…】 (1) (2) (3) 後書き
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【Deux caf au lait,…】
(3)
その夜、コンサートの始まる一時間以上前に、二人は正装してホテルを出た。
「リヴォリ通り75番地までやってくれ」
リヴォリ通りと言えば、ルーブル宮に面した大きな通りである。馬車が停まったのは古めかしい屋敷の前だった。
ひらりと馬車を下りたホームズが、ステッキでドアを叩く。
重そうにゆっくりドアが開き、小柄で白髪頭の執事が顔を見せた。
「失礼。こちらの御主人にお会いしたいのだがね」
「お約束はございますでしょうか」
「ない」
ホームズが首を振ると、執事はこちらを見下すような態度を取った。
「あいにくではございますが、私どもの主は約束がない方と軽々しくお会いになりません」
「名乗ったって御存知ないだろうからね。ではこれをお渡ししてくれたまえ」
さらさらとメモして手帳を破る。執事はしぶしぶ受け取り、引っ込んだ。
「何て書いたんだい」
「自分で考えたまえ。君が書いても同じ文章になったと思うよ」
いくつか星の光り始めた空を見ながら待っていると、現れた執事は打って変わって丁寧になっていた。
「失礼致しました。ぜひともお会いしたいと仰っておられます。どうぞお入り下さい」
案内されたのは客間ではなく、おそらく私室と思われる二階の部屋だった。執事がノックしてうやうやしく主に知らせ、一礼して去ってゆく。
ホームズがドアを開けると、カーテンを引きランプを灯した室内に、若い女性がぐったりとソファにもたれている。
「初めまして、マドモワゼル・ベルナール。私はシャーロック・ホームズ、彼は友人のワトスン君です」
「ベルナール?ベルナールってまさかあの、……」
女性が振り向き、ワトスンは口をつぐんだ。おびえたような、疲れきった表情――だが彼女は美しかった。
新進女優、サラ・ベルナール。四年前コメディー・フランセーズで主役を演じて大成功を収めて以来、その人気はうなぎのぼりで当代一との呼び声も高い。
「ああ、御親切な方々!私を助けてくれるのね!?でもどうやって……」
「その前にマドモワゼル。確認しておきたいのですが」
「どうぞ何でも」
ホームズは会釈し、ソファの向かいの椅子に座る。ワトスンも彼に倣った。
「ルビーのイヤリングは、盗まれたのですね?」
「そうよ。その数日後、金を払ったら取り戻してあげるって内容の妙な手紙が来て。私しゃくに障ったけど、ひいきにしてくれる方から借りたものだったし、警察沙汰にしたら私の信用がガタ落ちだもの。仕方なくお金を作ることにしたの」
「それで今日の昼過ぎ、ルーブル河岸のカフェで取引したんですね。だがうまくいかず、相手が先に店を出て、あなたは一人残った」
「何でも知ってるのね……」
めまいを起こしたのか、クッションに頭を当てて横になる。
「大丈夫ですか!?」
急いでワトスンが手を添えようとしたが、彼女は弱々しく微笑んだ。
「こうしていれば、少しは楽みたい」
「どうぞそのままでいて下さい。で、要求はいくらです」
「五十万フラン」
「それは……確かに大金ですね」
「全財産を集めても、二十万フランにしかならなかったわ。そしたらカフェであの男、『七時まで待ちましょう。七時までにかっきり五十万フランです』って……。どうしよう!」
「安心して下さいベルナールさん!」
ワトスンは泣き出した彼女の傍らにひざまずいて励ました。
「イヤリングはここにあります!」
驚いたように、彼女はまつげの長い瞳を開いた。ホームズからイヤリングを受け取り、震える手で確かめる。
「そ、そうよ……これだわ!まるで魔法のよう!いったいどうやってこれを?」
「なに、カフェから始まった小さな冒険の成果ですよ。では我々はこれで失礼します」
「待って!どうかお礼をさせて下さいな」
ホームズは首を振った。
「あなたの心労を取り除けただけで、僕たちは十分です」
「でもそれでは私の気持ちがおさまらないし、それに……」
サラ・ベルナールはワトスンの手を借りて立ち上がると、小切手を二枚切った。
「どうかお受け取りになって。ね?」
金額欄の数字を見て、ホームズは悟ったようだった。
「ああ、そういうことでしたら頂いておきましょう」
「一万フラン!? いやでも僕は何の役にも立ってないし」
ワトスンは返そうとしたが、青白い顔のサラは首を振るばかりである。
見かねたのかホームズが口を開いた。
「ワトスン。マドモワゼルは我々の良心をお買いになりたいんだ。つまりこれは君の沈黙の値段だよ。さっさとポケットに入れて、マドモワゼルを安心させてあげたまえ」
「う〜ん……じゃあ、それなら」
「よし、これで僕らは共犯者というわけだ。そう言えばあなたも今夜のコンサートにいらっしゃるんですね。夕刊に載ってましたよ」
「仮病を使って欠席するつもりでいたの。でも、急いで行く支度をしなきゃ」
「少しくらい遅れても平気ですよ。何たってあなたは当代一の舞台女優だ」
ホームズがあまりにも自信ありげに断言するので、彼女は泣き笑った。
「ええ……そうよね、仰る通りね!」
二人だけに通じたようで、ワトスンは首をかしげる。
「では、我々は一足先に行っておきましょう。会場であなたの笑顔を拝見するのを楽しみにしております」
涙を拭いて、サラは彼らと握手を交わした。
「本当にありがとう、御親切な方々!」
馬車に乗り込むと、早速ワトスンが尋ねた。
「あの人夫たちのアジトで見つけたのは、サラ・ベルナールの手紙だね?」
「その通りだよ。あそこにいた連中は、盗みに入っては盗んだ品物を元の持ち主に買い取らせていたんだ。まったく頭がいいと言わねばなるまいね、盗品から足が付く可能性は絶対にないのだから」
馬車の揺れに身を委ねつつ、ワトスンはうなった。
「警察には知らせなくていいのかい?」
「今知らせてはルパンを警戒させるだけだ」
「えっ、するとあいつらは……」
「そう、一人残らずルパンの部下さ。あの家の二階でヤツの痕跡を見つけたよ。だがこの盗品売買は人夫たちが勝手にやっていることだと思うよ、彼はああいうエレガントでないことは嫌いだからね」
「そうだったのか。それじゃホームズ、」
「まだ何かあるのかい?」
「君は今まで、ひとつも説明してくれなかったじゃないか。僕の好奇心を満足させるのは君の義務だよ」
やれやれと手を広げて、ホームズは苦笑した。
「では何なりとどうぞ、ムッシュ」
「心配しなくてもこれが最後だ。どうして彼女は遅刻したって平気なんだい?」
「ああ、そのことか」
重大な秘密を打ち明けるように、ワトスンを差し招いてその耳に含み笑いとなめらかな声を滑り込ませる。
「主役は後から登場するものだからさ」
空には月が、やわらかく輝きたたずんでいた。
THE END.
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