ベイカー街

□【グロヴナー広場の家具屋荷馬車の小事件】
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 【グロヴナー広場の家具屋荷馬車の小事件】



 (1)



 その事件が起きたのは1886年の10月初め、まるで春のような陽気の、気持ちのよい夕暮れだった。

 散歩ついでにクラブに寄って、ビリヤードを数ゲームしたワトスンは、大通りへ向かってステッキを振りながら住宅街の中の短い登り坂を歩いていた。家々の綺麗に形作られた庭には、ピンクのコスモスや白いデイジー、紫の小さなセージの花が美しく風に揺れている。

 そこへ行く手から、山高帽をかぶり、ツギを当てた上着にズボンという、使用人風の男がやって来た。

 すれ違うために歩道の内側へ寄ったワトスンの真正面で、男は足を止めた。

「ベイカー街のDr.ワトスン?」

 帽子のひさしの下からこちらを覗き込むように尋ねる。ラグビー選手のように胸板が厚く、人並み以上に大柄な男である。あごひげを生やしているが、年はワトスンと変わらない、30代半ばというところだろう。

「そうだが、何だね君は。……うわっ」

 ワトスンが返事をすると同時に、家と家の間の狭い路地に引きずり込まれる。擦り切れやツギハギの服という、同じような格好をした男たちに取り囲まれたかと思うと、頭から足まですっぽり袋を被せられる。

「何するんだ、離せ!!」

 真っ暗な中、夢中で手足をばたつかせて抵抗したが、あっという間に足先までぐるぐる巻きにされてしまう。それでもイモムシのように身体をひねってあらがうと、額に固い物が押し付けられた。

「大人しくするこった、さもないと風穴が開くぜ?」
「何が目当てだ!?ホームズの捜査の妨害か?私に何があったって、彼は必ず真相を突き止めるぞ!」

 言い返したワトスンは、ハッと気付いて息をのんだ。

「お前たち、ホームズにも何かしたのか!?」
「さぁ、どうかね。……おいそっち持ち上げろ」

 胸板の厚い男は彼らのリーダーらしい。近くに馬車を用意していたようで、丸太のように数人がかりで持ち上げられたかと思うと、固い床の上に放り出される。すぐに鞭がしなり、ひづめのパカパカという音と車輪の回る揺れとともに、ワトスンはどこかへと運ばれ始めた。




  *****




 手足の自由もきかず、目を開けても被せられた袋のせいで真っ暗闇だったが、馬車はそう長いこと走らずに止まり、ワトスンは再び複数の人手によって、横にされたまま持ち上げられた。

「いつもの通りだぞ、ぶつけんなよ!」

 リーダーの指示とともに足を先に、頭を高くして運ばれてゆく。どうやら階段を下りているようだ。

 男たちの足音の他は一切様子が伺えず、いつ放り出されるか、何が起こるかわからず、ワトスンは身体を固く強張らせる。

 やがて足からゆっくり下ろされ、立った姿勢になったところで縄を解かれ、袋を外された。

「着いたぜ先生。ドアを開けなよ」

 リーダーの声に促されるが、真っ暗闇な場所で目が慣れないのか全くものが見えない。恐る恐る手を前に伸ばすと、ドアノブが指に触れた。そっと捻ると光が漏れる。

 シャンデリアとランプで明るい部屋には人がいた。それが誰かわかったとたん、ワトスンはドアを押し開き、次の間に飛び込んだ。

「ホームズ!」

 真っ白なテーブルクロスが引かれたテーブルに肘をつき、椅子を斜めにして、明らかにむくれた様子で彼は足を組んでいる。見たところ危害は加えられていないようだ。

「ぁあ。君も招待を受けたのか」
「ここは何なんだ? ……その、大丈夫なのか?」

 ワトスンはあたりを見回した。

 高い天井に立派なマントルピース。豪華な調度と室内の惜しみない明るさは、まるで貴族の邸宅の食堂である。そこへ白いエプロンをつけたメイドが現れ、花の飾られたテーブルに空のスープ皿とスプーン、フォーク、ナイフを並べていく。

「ああ。危ないことは起こらない。ただのディナーの招待さ、少々悪ふざけの過ぎた、な。一番腹立たしいのは」
「……この私に頭が上がらないことかな?」

 悪戯が成功したニヤニヤ笑いを湛えて、第2のドアから入って来た紳士がウインクを飛ばす。

「頭が上がらない!? その……君がか!?」
「別に、そんなことはないさ!」

 いよいよむくれてしまったホームズをなだめるように、紳士は両腕を広げた。

「やあ、久しぶりだねホームズ君。お待たせして申し訳ない。Dr.ワトスンも、先ほどはうちの者が失礼しました。お越しいただき大変感謝しております」

 年の頃は50前後、白髪交じりの髪をオールバックにし、昼間の正装であるフロックコートを着ている。服の上からでもわかる恰幅のよい身体に太い腕で、2人にニコニコと握手を求め、いささか乱暴に握った手を振る。

「こんな時間までその格好とは、相変わらず仕事熱心ですね。しかしもう少し普通の呼び出し方はできなかったんですか。……やあ、ライオネル」

 むくれたままのホームズは握手の手を離し、招待主が連れている20歳そこそこのハンサムな若者の方とは、眉の険をいくぶん和らげて挨拶した。

「お久しぶりですホームズさん。初めまして、ワトスン先生。ライオネル・ブロミッチと申します。父は何と言うかその……サプライズ好きでして。驚かせてしまって、申し訳ありません」
「よろしく。銃まで突き付けての招待とはどういうことか、説明してもらえるんでしょうな。だいたいホームズとは、どういう御関係なのですか?」

「銃?そんなもの……ははあ、さてはクレイヴンの奴が、機転をきかせたようですな」

 席に着いた父親のブロミッチ氏が、笑みを絶やさずにナプキンを広げる。

「私自身については、ホームズ君から話してもらいましょうかな。なあホームズ君、君が私の店子だったのは、いつくらいの話だったかな?」

 スープを注いでメイドが下がると、ホームズは面倒そうに口を開いた。

「ワトスン、僕らを招待したこの紳士は、ウェスト・ブロミッチ氏だ。家具屋を何軒か経営していて、大英博物館周辺には賃貸しの部屋をかなり所有している。ベイカー街に越して来るまで僕はモンタギュー街に住んでいてね。探偵の仕事を始めたばかりの頃は、依頼人もなかったから家具屋の仕事を手伝ったこともある。ライオネル君は跡取り息子だよ」
「今、一生懸命仕事を仕込まれているところです」

 若いブロミッチ氏は苦笑する。

 家具屋のオーナーとは言うものの、父のブロミッチ氏自身はフロックコートを着て店で接客しているよりも、腕まくりをして現場で大声を上げている方が似合いそうだ。

 スープをあっという間に平らげ、ブロミッチ氏は次の皿をせかすために卓上のベルを鳴らした。

「それでホームズ君と家族ぐるみの付き合いをするようになりましてね。最初の頃は、困り事のあるうちのお客様をよく彼に引き合わせたものです。儂は劇的なことが大好きなんですよ。探偵と言えば劇的な職業の最たるものでしょう?」
「そうでもないと、前から言ってるんだけどね。で、今日僕らを呼び出したのは何なのですか」

 肉料理・鹿ステーキの香味野菜添えを口に放り込みながら、ブロミッチ氏は息子を促す。

「実は、奇妙なことが続いていまして……。調べてほしいことがあるんです」






 (2)へ続く。
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