ベイカー街
□【7月31日 天気・晴】
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【7月31日 天気・晴】
私が街でたまたまホームズを見かけたのは、ロンドンに夏の暑さがどっしりと居座っている7月最後の日の午後だった。
暇つぶしにクラブに行こうと私が部屋を出るとき、ホームズは事件もなく、暑さのせいもあってうんざりした顔で新聞を切り抜いていて、出かける様子などみじんもなかったのだが。どういう風の吹き回しだろう。
しかも見かけた場所が、高級ブランド街ボンド・ストリートである。渋好み、一流品好みの彼が、何を買うつもりか気になって、道の反対側から見ていると、スマイソンに入って行った。去年開店したばかりの、羽のように薄い紙と革を使った高級文具の専門店である。
中に入ったらホームズは気付くに違いない。それでも好奇心に負けて、私は道を渡りガラス戸を押し開けた。
細長い奥行きの店は、平台から壁まで、様々な紙、鉛筆、ノート、スマイソンの名を一躍有名にした革表紙の手帳などが並んでいる。
ホームズは奥で店員の男性と何やら話していた。
幸い彼は私には気付かなかったようだ。まばらな客に紛れてグリーティング・カードの棚に隠れ、聞き耳を立てる。
「誕生日プレゼントでございますね。試し書きなさいますか?インクの色もお好みで調整致しますが」
どうやら最新流行の筆記具、万年筆を品定めしているらしい。しばらく後、買う1本を決めたホームズの声がする。
「これにしよう。さっきの手帳と一緒に頼む。ところで、ケースには文字を入れてもらうことができるだろうか?」
「はい、承っております」
初老の店員が、先刻承知といった風情で答える。
「来週の今日までに間に合うかな?」
「ちょうどその日に仕上がります。メッセージは何と?」
しばらく考えていたホームズは、サラサラとペンを走らせた。
「これで頼む」
「かしこまりました」
支払いを済ませたホームズが店を出た後、さらに2階の画材を見て30分以上を潰してから私は外に出た。
これだけ時間を取れば、帰り道に出くわすこともないだろう。彼は私がずっとクラブにいたと思うに違いない。
−−それにしても。
1週間後は8月7日。私の誕生日だ。彼に話したことはないのに、ホームズはいつそれを知ったのだろう。
いまさら、取り立てて自分の誕生日をどうのこうのという歳でもないから、ハドスン夫人にも言ったことはない。
(最近そういう話をしたことは−−)
ここ数日の記憶を遡っていて、私は不意に思い出した。
4〜5日前、ベイカー街で新聞を売っていたいつもの少年が、ヤケにニコニコしていたことを。
*****
雑踏の中で、いつものように代金を払い夕刊を買った私は、少年のしまりのない顔に気付いて声をかけた。
「やけに嬉しそうじゃないか。どうしたんだい」
「へへへ。すいませんね旦那。今日はおいら誕生日なんです。幼なじみのコが、うちに来ておフクロと料理作ってくれるんで」
「へえ、カノジョじゃないんだ?」
「ええ、まあその……今はまだ」
へへへ、と照れながら笑う少年に、私も笑ってポケットを探る。
「頑張れよ!私とも誕生日が近いし、君の前途を祝して」
小遣いを渡すと、彼は大事そうに握りしめて胸に当てた。
「ありがとうございまっす!旦那はいつなんで?」
「君の10日後だよ。それじゃ」
「まいど!」
ポンと少年の背中を叩いて下宿へ戻ると、ホームズがだらしなく伸びていたソファから視線で私を出迎えた。
「……何だい、楽しそうじゃないか」
「いや大したことじゃないよ。ほらいつもそこにいる新聞売りの子が、今日誕生日なんだそうだ。恋人未満の幼なじみが今夜は料理を作ってくれるらしい」
「ふうん」
あからさまに興味なく、私の買って来た新聞を奪ったホームズだったが、後日あの少年と話をしたに違いない。私はうっかり手掛かりを提供してしまった訳だ。
*****
(――さて)
店を出た私は考えた。
ホームズは何とメッセージを書いたのだろう。
『感謝をこめて』?−−依頼人じゃあるまいし。
『いつもありがとう』?−−子供がお母さんにあげるんじゃないんだよ。
『永遠にともに』?−−プロポーズかい!
1人でツッコミを入れながら、私はベイカー街へと歩いた。
自然と頬が緩んでしまい、暑さは全く気にならなかった。
THE END.
【そのあと】の対になるSS……にしては、Rな気配がこれっぽっちもなく優しすぎでしょうか。ワトスンが言う通り、店にいたことを、ホームズが気付きませんでしたように。(^_^;)
アイデア提供は秋月耀次郎様、ありがとうございました。
これのさらに対になるSSをご用意しました☆
【8月7日 雨のち晴】《現代版》
と、
【8月7日 雨のち晴】《19c版》
です。ブラウザバックで戻られてから、目次よりお好きな方をご覧ください。
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