ベイカー街

□【8月7日  雨のち晴】 《現代版》
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 【8月7日 雨のち晴】 《BBC現代版》




「今夜は外食しよう。予約を入れておくよ」

 ある事件が解決し、依頼人が謝礼を置いて帰った、夏の日の午後。

 急に言われて、僕はブログを書き込んでいたパソコンから顔を上げた。シャーロックは首尾よく事件を終わらせた機嫌の良さから、両手を擦り合わせ笑顔を浮かべている。

「いいね!何料理にする?」

「ストランドのシンプソンズはどうだい?」

 シャーロックが挙げたのはローストビーフが有名な、19世紀から繁盛している格式の高いイギリス伝統料理店の名前だった。僕は思わず椅子を引く。

「ドレスコードのある店じゃないか!そんな高級店じゃなくて、もっと気軽な店にしようよ」

「たまには贅沢もいいさ、何せ謝礼が入ったばかりだからな。僕は用事があるから出掛けるよ、7時に店の前で会おう」

 現金の入った封筒を上着の内ポケットに仕舞い、シャーロックはこちらの返事も待たずに下宿を出て行った。



 *****



 しわひとつないジャケットにきちんと折目のついたズボンと慣れないネクタイをして、僕は待ち合わせより少し早く着き、店の前で彼を待っていた。内心気後れしながら、店のガラス窓で服装のチェックをする。

 夏の7時はちょうど夕暮れ時。仕事を終え帰宅する勤め人、ライブハウスへ遊びに出るパンクなカップルなど、雑多に行き交う人通りの中で、僕は腕時計に目を落とした。

 約束の時間を5分過ぎたところで、シャーロックが現れる。彼は茶色の小さな包みを脇に抱えていた。

「遅れてすまない」

「いや、大丈夫だ」

 シャーロックがこちらをじろじろ見るので、いたたまれなくなって両手を広げる。

「何?似合わない?」

「いや、そんなことない。…君とここに来るのは初めてだよな?」

「初めてだよ。それが何?」

「…よく、来たことがあるような…。以前にも君が、そうして僕を待っていたのを見た覚えが…」

 珍しく戸惑った表情のシャーロックは、全くいつもと変わらない、細身によく似合うスーツにノーネクタイである。

「誰かと勘違いしてるんだろ」

「勘違いじゃない。僕が、君以外の誰と食事に行くっていうんだ」

 まあこの男なら、一人でどんな店にでも入って行くだろうが、確かに連れとなると…。彼に友人がいないのは皆が認めるところだから。

 シャーロックは軽く頭を振って意識を切り替えた。

「行こうか」

「行こうか、って…ネクタイは?」

「僕には関係ない。どんな格好をしていても僕は僕だ」

 それはそうだろうが、店の都合ってものもあるだろうに。

 僕の呟きを無視して、彼は店のドアを開けた。




 店内に入ると素早く砂色の髪のウェイターが出迎えた。ちょうど食事時で、唯一Reservedの札のかかった、通りを見下ろす窓辺の席に案内される。

 シャーロックがウェイターに何か告げると、彼は畏まって下がった。

 席につくと僕は尋ねた。

「今までどこに行ってたんだ?」

「ウィギンズが面白い話を知らせてくれたんでね。ちょっと現場を見て来たんだ」

「面白い話?」

 ウィギンズというのは、シャーロックと繋がりを持つ不良少年の一人である。ということは、イーストエンドで何か事件でもあったのだろうか。

「ホワイトチャペルで女の死体が発見されたんだ−−39ヶ所も身体を執拗に刺されていた」

 僕は思わず眉をひそめた。

「食事前にそういう話をするなよ。…でも、ひどい話だな」

「ああ、僕の記憶では春頃にも似たような殺され方をしたコールガールがいたが、まだ犯人は捕まっていない」

「同一犯かな」

「たぶんね。少し調べたかったんだが、アセルニー・ジョーンズに追い払われた。手に負えないとわかったら連中も考えを変えるだろう。それまでは好きにさせておくさ」

 そこへウェイターが現れ、細かく泡の浮くグラスを運んできた。

「シャンパン?」

 首をかしげる僕に、シャーロックがしてやったりと微笑む。

「お祝いだからね。君は隠していたけど、今日は誕生日だろう?」

 そういうことだったのか。僕は笑い出した。

「急に外食しようと言い出したのはそれでか!君のことだから、いつかバレるとは思ってたよ。でもてっきり、ハドスンさんも交えてベイカー街で祝うかと」

「……そっちの方がよかったかい?」

「いや」

 かすかに拗ねた色が混じる質問に、ニヤッと否定してみせる。

「それに、ここは君の奢りなんだろう?存分にご馳走になるとするよ」

 メニューを広げ料理を注文すると、シャーロックは椅子の背にもたれた。

「ベイカー街で祝っても良かったんだが、君が誕生日をハドスンさんにも教えてなかったからね。秘密は守るよ」

「そうだったのか」

 伝える機会がなかっただけで、特に秘密にしている訳ではなかったが、彼の配慮に感謝はしておく。

 照明を絞った店内は、それぞれのテーブルにロウソクが灯されていて、19世紀の内装に影を落とし、往時の雰囲気を醸し出している。

 金色に照らされた店内、白いテーブルクロスと卓上の小さな花瓶を挟んで向かいに座るシャーロック−−足元が揺らぐような感覚に確信する。

 僕はここに来たことがある。他の誰でもない、向かいに座るこの彼と。

 シャーロックも目を開き、息を止めて僕をじっと見つめていた。

「…デジャヴ、ってあると思うか?」

 彼の声は、明らかに動揺していた。

「既視感って奴か。今その真っ最中だよ」

 知らないはずのものを、既によく知っているような感覚。いったい何故なのか。

「前世の記憶、とか?」

 取りあえず思いついたので言ってみると、案の定鼻で笑われる。

「生まれ変わりとは、ロマンチストな君らしいな。だいたい、自分の前世が人間だとどうして断言できる?」

 いかにもリアリストらしい言葉に苦笑する。

「そうだな。僕の前世も、例えば羊とかだったかも知れないし」

「羊のジョン、ってか。君なら確かに、あの羊の代わりができそうだ」

 可笑しそうに彼は笑い、金色の泡が立つグラスを手にする。

「だが来世は、信じてみたい気がするな」

「来世でもこうして、この店に来たりして」

「君の誕生日に?」

 チンと涼やかな音を立ててグラスを合わせ、シャンパンを含む。

「これは家に帰ってから開けてくれ」

 プレゼントまで用意してくれていたようで、小脇に抱えていた包みを、テーブルに乗せて押しやる。

「えーっ気になるよ、今開けていいだろう?」

「いやちょっと待っ……」

 僕はシャーロックの返事に構わず包みを開けた。

 センスのよい、緑色の装丁の革の手帳と万年筆の箱。

 箱を開け、裏蓋に金の箔押しで書かれたメッセージを読んで−−向かいに座る彼を見る。

 シャーロックは耳まで赤くなっていた。

「だから家で開けてほしいって言ったんだ」

 その珍しい表情も、3つめの誕生日プレゼントとして胸にしまい込む。

「ごめん。それとありがとう。大切にするよ」

 ニッコリ笑って礼を言うと、彼も気恥ずかしさから立ち直ったようだった。シャンパンのグラスを小さく掲げる。

「それじゃ改めて−−誕生日おめでとう」

 僕たちは再びグラスを打ち合わせた。



 箱の裏蓋に何と書かれていたのかは、僕とシャーロックだけの秘密だ。





THE END.




・Drの誕生日当日の話も読みたい(しかも現代版で)というご要望を頂いたので、四苦八苦しながらどうにか形にしました。しかしジョンも口が堅いので、シャーロックのメッセージの内容だけは明らかにならずじまい(笑)。

・羊がどうの、と言っているのは[羊のショーン]のことです。毎週土曜朝9時から、NHK-Eテレで絶賛放送中☆主役のショーンは、本当に知力も機転も度胸もリーダーシップも素晴らしいです。リフティングする時点でもうミドーはゾッコンLove(笑)


・ワトスン先生の誕生日は、聖典をいくらひっくり返しても載ってません。8/7ってなってたのは例によってミドーの参考書、ベアリング=グールドの[シャーロック・ホームズ〜ガス燈に浮かぶその生涯]より。Dr、そして今日お生まれの全ての方々。お誕生日おめでとうございます!



 お気に召しましたら、ひと押し頂けると幸いです。



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