ベイカー街
□【8月7日 雨のち晴】 《19c版》
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【8月7日 雨のち晴】 《19c版》
今夜はホームズの提案で、夕食をレストランで食べることになった。場所はストランドにある名店・シンプソンズ。
私は待ち合わせより少し早く着いて、店の前で彼を待っていた。
仕事を終え帰宅する勤め人、劇場などへ遊びに出る若いカップルなど、雑多に行き交う人通りの中で、私は懐中時計の蓋をパチンと開けた。
約束の時間を5分過ぎたところで、ホームズが現れる。彼は茶色の小さな包みを小脇に抱えていた。
「遅れてすまない」
「大して待たなかったよ」
店内に入ると素早く砂色の髪のウェイターが出迎えた。あらかじめ予約してあったのか、唯一空いていた窓辺の席に案内される。
ホームズが一言ウェイターに何か告げると、彼は畏まって下がった。
席につくと私は尋ねた。
「どこに行ってたんだい?」
「ウィギンズが面白い話を知らせてくれたのでね。ちょっと現場を見て来たんだ」
「面白い話?」
ウィギンズというのは、ホームズが組織している浮浪児集団のリーダーである。ということは、貧民街で何か事件でもあったのだろうか。
「ホワイトチャペルで娼婦の死体が発見されたんだ−−39ヶ所も身体を執拗に刺されていた」
私は思わず眉をひそめた。
「ひどい話だな」
「ああ、僕の記憶では春頃にも似たような殺され方をした娼婦がいたが、まだ犯人は捕まっていない」
「同一犯かな」
「たぶんね。少し調べたかったんだが、アセルニー・ジョーンズに追い払われた。手に負えないとわかったら連中も考えを変えるだろう。それまでは好きにさせておくさ」
そこへウェイターが現れ、細かく泡の浮くグラスを運んできた。
「シャンパン?」
首をかしげる私に、ホームズがしてやったりと微笑む。
「お祝いだからね。今日は君の誕生日だろう?」
そういうことだったのか。私は破顔した。
「急に外食しようと言い出したのはそれでか!君のことだから、いずれ突き止めるとは思ってたよ。でもてっきり、ハドスンさんも交えてベイカー街で祝うかと」
彼をスマイソンで見かけたことは黙っておく。
「……そっちの方がよかったかい?」
「いや」
かすかに拗ねた色が混じる質問に、ニヤッと否定してみせる。
「それに、ここは君の奢りなんだろう?存分にご馳走になるとするよ」
メニューを広げ料理を注文すると、ホームズは椅子の背にもたれた。
「ベイカー街で祝っても良かったんだが、君が誕生日をハドスンさんにも教えてなかったからね。秘密は守るよ」
「そうだったのか」
伝える機会がなかっただけで、特に秘密にしている訳ではなかったが、彼の配慮に感謝は示しておく。
照明を絞った店内は、それぞれのテーブルにロウソクが灯されていて、雰囲気を醸し出している。
「君のこの1年が有意義なものになるように」
「ありがとう」
チンとグラスを合わせ、ホームズもシャンパンを含んだ。
「これは家に帰ってから開けてくれ」
小脇に抱えていた包みを、テーブルに乗せて押しやる。
「えーっ気になるよ、今開けていいだろう?」
「いやちょっと待っ……」
私はホームズの返事に構わず包みを開けた。
センスのよい、緑色の装丁の革の手帳と万年筆の箱。
箱を開け、裏蓋に金の箔押しで書かれたメッセージを読んで−−向かいに座るホームズを見る。
彼は耳まで赤くなっていた。
「だから家で開けてほしいって言ったんだ」
その珍しい表情も、3つめの誕生日プレゼントとして胸にしまい込む。
「ごめん。それとありがとう。大切にするよ」
ニッコリ笑って礼を言うと、彼も気恥ずかしさから立ち直ったようだった。シャンパンのグラスを小さく掲げる。
「それじゃ改めて−−誕生日おめでとう」
私たちは再びグラスを打ち合わせた。
裏蓋に何と書かれていたのかは、私とホームズだけの秘密である。
THE END.
・当日の話も読みたいとご要望を頂いたので、Drの日記の該当ページを探し当てました。そして現代版の2人が悩まされていた、デジャヴが見せた光景でもあります。そうなるともはやデジャヴではなく、やはり前世の記憶?(笑)
お気に召しましたら、ひと押し頂けると幸いです。