ベイカー街

□【ヨークシアの悪魔崇拝者事件】 事件編
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(1)

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『ブルース・パーティントン設計書』以降、『覆面の下宿人』以前と言えば、賢明な読者諸君はこの事件が1896年のこととおわかりになるだろう。

 何のへんてつもない、夏の朝のことだった。私が居間の定位置で新聞を広げていると、呼び鈴がリンと鳴った。それが、事件の始まる合図だったのである。

「電報ですか、ハドスンさん」
「ええ、ホームズ先生あてです。お返事はどうしましょうか」

 ホームズは別の調査にケリをつけた解放感からか、数日犠牲にした睡眠時間を取り戻すべく深い眠りについている。

「彼は寝ているから、配達人には帰ってもらっていいですよ」
「……誰が寝てるって?」

 心底不機嫌そうな声がする。いつの間に起き出したのだろう、ガウンを羽織ったホームズが自室のドアによりかかりこちらを睨んでいた。

 黙って突き出された手に紙片を乗せると、電文を読んだ彼の顔色が変わった。

「ホームズ、どうした!?」

 心配して声を上げる私の目の前でドアが閉まり、すぐに身支度を整えた彼が現れた――黒のフロックコートにシルクハット。

「出かけてくる」
「事件かい、だったら私も行くよ」

 睡眠不足のせいでふらつく身体を支えようとさしのべた腕を、彼は冷たくはねのけた。

「君には関係ない」
「ホームズ……」
「先生、どちらに行かれるのですか!?朝食くらいお食べにならないと」
「内務省だ」

 ハラハラと気を揉むハドスン夫人に目もくれず、ホームズは下宿を飛び出した。

 内務省なら彼の兄と会うに違いない。しかしいったいどんな用事だというのか。

 昼前帰って来たホームズはトランクに荷物を詰め込み、また風のように出て行こうとした。

「ホームズ!!」

 彼を捕まえたとき、私は今朝よりますます血の気の引いた端正な顔を見た。

「体調もよくないのに、旅行なんて無茶だよ!君が指示してくれたら私が代わりに行くから、頼む……一人で無理しないでくれ」
「邪魔だ、ワトスン。列車に遅れる」

 冷酷に言い放つと、17段の階段を駆け降りる。
 そこまで言われて、何ができるだろう。私はただ黙って彼を見送った。



 *****



 電報が届いたのは、その翌々日のことだった。

『シヤ −ロツクビヨ ウキ タダチニ コラレタ シ  トマス・バーグ』

「ハドスンさん、馬車を呼んで下さい!」

 発信元はヨークシア州北ライディング、マイクロフト農場となっている。このバーグ氏が今回の依頼人なのか?

 はやる心を抑えつつ、私は二日前ホームズが乗ったであろう列車に乗り、ロンドンを後にした。

 途中の風景などはほとんど目に入らず、最寄りのエクスター駅に着くと食事もそこそこに馬車を雇う。

「マイクロフト農場?」

 あごひげを生やした御者は、行き先を知ってじろじろと私を眺めまわした。

「あんなところに何の用がありなさるね」
「友人が病気なんだ!頼むから急いでくれ」
「おや、そうだったんですか。だったら乗んなせえ!」

 手のひらを返したように親切になった彼は、馬にぴしりと鞭をくれた。

 エクスターの小ぢんまりとした町並みを出ると、一面の荒野だった。ヒースの茂みが広がるヨークシア特有の景色の中を、くねくねと小径が続いている。道の幅は馬車一台がやっと通れる細さだ。

「なあ君、マイクロフト農場で何かあったのかい?」

 私はホームズのことばかり考えていて、自分でも気がそぞろとわかる状態だったが、それでもさっきの御者の様子は気になった。

「ああ、でもオレの口からは言いたくありやせんね。何しろ良くないことってのは、口にしただけで我が身に降りかかってくることがあるからね。そもそもあんなところに好き好んでいく者など、あれ以来おりはしませんよ!」

 それ以上はどんなに尋ねても話してくれないまま、農場についた。エクスターの駅から20分といったところか。

 『マイクロフト農場』と小さく書かれた通用門を過ぎ、木立の中をしばらく行くとジョージ王朝式の古めかしい建物が見えてきた。

「旦那のお友達の方はバーグさんのところにいるはずだから、別棟へ回りますよ。どのみち館は無人だしね」
「別棟?バーグ氏はここの主人じゃないのかい」
「とんでもない。バーグさんは地所の管理人で、今じゃ農場の一切を受け持ってますよ。だって」

 御者は何がおかしいのか笑いだしたが、突然黙り込んだ。

「だって、何なんだ?主人はどこで何をしているんだね」
「バーグさんにお聞きなせえ。それともバーグさんが病気なのかね?」
「いや、そうじゃないが」
「ほい、着きましたよ」

 その一言で当主に対する疑念は霧のように消えてしまった。別棟も館と同様に古い上等な石材でできているがこちらの方が小さめである。御者に金を払うと、私は石段を駆け上がった。

 しばらくドアを叩いていると、閂を外す音がする。

「どちらさまですか?」

 白髪で腰の曲がった老婆である。私はせき込むようにホームズの容態を尋ねた。

「ああ、あなたがシャーロックさまのお友達で。ええどうぞ、こちらですよ」

 年寄りにありがちな、ゆっくとした話し方や動作にいらいらしたが、ともかく彼女は中に入れてくれる。

 窓から庭がよく見渡せる部屋で、彼は横になっていた。

「ホームズ、ホームズ!私がわかるかい?ロンドンから駆けつけたよ」

 彼はぼんやりと宙を眺めていたが、枕元で呼び掛けると私を認めたようだった。

 




  (2)へ続く。




 
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