ベイカー街
□【happy dance】
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【happy dance】
(1)
1873年・夏。
パリの北駅はバカンスで国外に脱出する者、あるいは夏休みを利用した観光客で、夜も混み合っていた。
「まいったなあ。だからね、僕は宿を紹介してもらいたいだけなんだってば」
着古されてはいるが紳士らしい服装をした若い男が、駅の案内所で困り切っている。係員の中年男性は何やら同じフランス語を繰り返すばかりで、さっぱり要領を得ない。
「それは君のフランス語がへったくそだからさ」
懐かしいイギリス英語で突然腕を引っ張られて、彼は案内所の前から退くことになった。
「見たまえ、君のせいで長い列ができてしまった」
異国で出会ったその若者は、帽子を取り黒い髪をかきあげた。並んでいる人々を見る目は、魅入られてしまいそうな深い灰色である。
「悪かったよ。でもあの人が何て言ってるかわからなかったから」
「ホテルはどこも満室で、予約もなしに泊まれるようなところはありません、とさ」
「そうだったのか。まいったな、どうしよう」
頼るものとてない心細さに、途方に暮れる。
「……君どうしてパリに?」
「夏休みに、ヨーロッパを貧乏旅行しようと思ったんだ。君は?」
「僕も似たようなものさ。どうだろう、僕の泊まる所に行ってみるかい? 一部屋くらい何とかなるかも知れない」
「ぜひお願いするよ!屋根さえあれば文句は言わない」
本当だね?と目で問われ、悪ノリして付け加える。
「あと、料理がおいしければいいな」
「そいつは自分の舌で確かめたまえ」
言うなり若者はさっさと歩きだす。彼は慌ててトランク片手に追いかけた。
「おおい待ってくれ、自己紹介くらいさせてくれよ。僕はジョン・H・ワトスン」
「医学生かい?」
先手を打たれ、ワトスンは驚いた。
「あれ、もう話したっけ?」
「そのくらい、見ればわかるさ。どこの学校だい?」
「ロンドン医科大。と、バーツにも行ってる前途有望な21歳さ。それで、君の方は?」
「オックスフォードはクライスト・チャーチ・カレッジのしがない一学生、シャーロック・ホームズ。君より2歳年下になるな」
きらきらしく輝くガス灯の下で、若者は手を上げ馬車を止めた。
彼が連れて行ってくれたのは、サンジェルマン通りの近くのホテルだった。普通の家と間違えそうな建物で、街中なのに穏やかな静けさに満ちている。
「シャーロック・ホームズさま。はい、お待ちしておりました。ルレ・クリスティーヌにようこそ」
初老のフロント係が、控え目な微笑みを浮かべて暖かい光とともに二人を出迎えた。
「他に部屋は空いているかな。彼も、泊まりたいんだが」
「ええと、中二階の少し狭い部屋になりますがよろしいですか?宿帳にサインをお願いします」
住所と名前を書くと、フロント係はカウンターから出てきて荷物持ちのボーイに早変わりした。
「お部屋にご案内いたします。どうぞ」
ワトスンの部屋は、狭いながらも白を基調にスッキリまとめられている。窓からは、昼間ならポン・ヌフを臨むことができるということだった。
翌朝、ホームズの部屋をノックしたワトスンは、彼がとうの昔に出かけてしまったと、たったひとりのボーイから聞かされた。
「何だ。あてが外れたな」
がっかりしながら食堂に行くと、先客がいた。
自分といくらも年の違わない、若い娘である。朝日に透ける金髪に、仕立ての良い青いドレス。彼女はコーヒーを飲んでいたが、こちらに気付くとにっこりと微笑んだ。
「お早うございます。あら、お一人かしら。昨夜一緒にいらした方は?」
「あ、彼はどこに行ったんだかさっぱりわかりません。えーと、あなたはここにお泊りなんですか?」
「ええ。ルイーズ・ヴィルモランと言います。よろしく」
フランス人にしては完璧な英語を話している。美人である上に言葉も通じるとあって、ワトスンは彼女と親しくなることに決めた。
「フランスの方はみんなバカンスなのでは?」
「そうじゃないのもいますわ。あなたは、観光で? よろしかったら市内を御案内しましょうか」
「え、でも……いいんですか」
「どうせ暇ですもの。私ね、実は家出中なの」
ドレスと同じ色の瞳をきらめかせて、彼女はささやいた。
「家出!?」
「ええ。だってお父様が無理やり私を女王にしようとするんだもの」
「女王に!?」
「あ、いえ、こっちの話。まだ発表はできないんでした」
にっこり笑って誤魔化されては、それ以上聞く訳にも行かなかった。
その日、2人は1日かけてパリ中を巡った。ルーブル宮殿からシャンゼリゼ通り、凱旋門をくぐってエッフェル塔、アンヴァリッドへ。
若木の生い茂る公園内に入ってゆくと、セーヌを盛んに行き来する艀が見える。日はまだ高かったが、穏やかに響く鐘の音が、たそがれの近いことを告げている。
ワトスンは改めて聖堂を仰いだ。
「いい建物ってのは裏側から見ても、いいものだね」
「でしょう?威圧されそうな正面より、私はこっちの方が好き。めったに人も来ないし……きゃっ!」
川面を、急に強い風が吹き過ぎる。あおられてルイーズの帽子が飛ばされた。
そのまま、空に溶けたように見えなくなる。
「消えた……」
思わずワトスンがつぶやくと、ルイーズは髪を払って潔く肩をすくめた。
「仕方ありません、自然現象ですもの。また買えばいいんです。なかったものと思ってあきらめましょう」
「……お嬢さん」
声をかけられて振り向くと、ラベンダーの香りを漂わせたすらりとした上背の紳士――というよりは青年が立っている。
彼が手にしているものを見てワトスンは驚いた。青年が差し出したのは、飛ばされたばかりの帽子ではないか。
「あなたのではありませんか?」
「そんな、まさか」
だが内側には確かに彼女の名が記されている。
「たった今、天から贈られてきたのですよ。持ち主が見つかってよかった」
人の良さそうな笑みに、ルイーズは声を上げた。
「あ、あなたはもしかして、ピアニストのジャン・クロードさんでは?この前パリ音楽祭で優勝した」
「私のようなひよっこを御存知とは、光栄の至りです。さあどうぞ、お美しいマドモワゼル」
彼はルイーズに帽子をかぶせ、その手のひらに恭しく口づけた。
「明日の夜、慈善演奏会を行います。ぜひいらして下さい」
ワトスンに封筒を渡し、たそがれ迫る街へと去ってゆく。
二人がホテルに戻る途中、至る所で夕刊売りの少年が見出しを叫び、客寄せをしていた。
「ルパンだよ、怪盗ルパンの予告状だよ! 今度は英国の名探偵ホームズ氏に挑戦だ!」
(2)へ続く。