ベイカー街

□【Deux café au lait,…】 (1) (2) (3) 後書き
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【Deux caf  au lait,……】



(1)


「Deux caf  au lait,sil vous plait!」

 午後の観光の仕上げに、カフェに立ち寄ったホームズとワトスンは、運よく通りに出された、眺めの良い席に座ることができた。

 ホームズが流暢なフランス語で注文している間、ワトスンはのんびりと足を休める。

「ノートルダムからの眺めは素晴らしかったねえ。……おや?」

 柔らかいものが当たって、下を向く。

「猫だよ、ホームズ」

 灰色の猫がこちらをじっと見つめている。撫でてやろうと手を伸ばした瞬間、しなやかに跳躍して逃げて行ってしまった。もう一匹、白と黒のまだらの猫は、ワトスンと目が合うと、ニャーと鳴いて仲間の後を追う。

 あっけにとられたワトスンは、落とし物に気が付いた。

 男物の、札入れである。

「前の客の忘れものかな」

「だとすると妙だな。僕たちの前にこの席に座っていたのは女性一人だ。ちょっと開けてみよう」

 いそいそと札入れを手にする。

「おい失礼だよホームズ。どうして前の客が御婦人だとわかるんだ?」

 彼はあきれたように片眉を上げて、ワトスンを軽く睨んだ。

「いやはや、君は見なかったのか?僕らがこの席に着いてから、ギャルソンは前の客のカップを片付けた。カップは一個だったし、ふちに口紅がついていたよ」

「そうだったのか、気付かなかった」

「と言うわけで、僕たちは女性が持つにしてはこの財布はおかしいという結論に達した。では開けよう」

 財布の中には1フラン、2フラン、5フラン紙幣がいくらかに名刺が二枚、それと……

「見たまえ、ワトスン」

 ホームズは嬉しそうに声をひそめた。素早く手の中に握りこんだ何かが、木漏れ日に輝く。

 目にしたワトスンは驚いて身を引き、物問いたげに彼を見た。

「そう最高級のルビー、ピジョン・ブラッドのイヤリング一対だ。ますます面白くなってきた。君はこの札入れから何を推理する?」

 カフェオレをすすり、ホームズは悠然と足を組んだ。

 財布の色は黒。派手なデザインで牛革の上等なものだが、表面はところどころ傷つき、白っぽくなっている。

「ずいぶんと使いこまれたもののようだね」
「そうかな? 革はごく新しいものだし、これは買ったばかりだよ。折り目がすり切れていない」

「じゃどうしてこんなにボロボロになってるんだ?」

「簡単なことじゃないか。急に乱暴な扱いを受けることになったからさ。たぶん持ち主が代わったんだろう。さて、次は名刺だが」

『ナンドロン商店 店主 ポール・ナンドロン』
『パリ慈善協会 参与 ピエール・バルデ』

 どちらもありふれた紙と書体で印刷されている。

「君の説によると、バルデ氏から商店主へ、所有権が移ったのかな?」

「それじゃみすぼらしい財布とイヤリングの関係がわからないだろ。そう……、ある紳士が買ったばかりの財布をスられた。スリは普通なら金だけ盗って財布は捨ててしまうんだが、こいつだけは気に入ったのか持っていた。名刺は身分を偽るときのもの。イヤリングは別件の、スリ君の戦利品といったところかな」

 ホームズは拾った財布を手にして考え込んだ。

「元の持ち主はおそらく、流行の最前線を行くキザな男だね。でも今は汚れた札、しかも小額紙幣しか入ってないし、人畜無害そうなこの名刺ときたら! この素晴らしいイヤリングは、必ず何らかの犯罪と関わっているよ。何だったら賭けてみるかい?」

「やめとこう。君が正しいのは知っているよ」

 カフェオレの味を堪能しながらセーヌの景色を眺めていると、川岸を行き交う人々の中からはじき飛ばされたように男がこちらへやって来た。

 年の頃は四十ほどだろうか。縫い目がほころびかけたフロックコートに赤いチョッキを着込んでいる。

 男は二人の前に立ち、そわそわと帽子を取るとだいぶ数の減った金髪にかぶり直した。気の毒に、平均的な女性よりも背が低い。

「すみませんが、ここらで財布を見ませんでしたか?」

「さあ、全然気付きませんでしたね。まだそこらに落ちているかも知れませんよ」

 ホームズは素知らぬ顔で両手を広げる。

 地面にかがみこんだ男はすぐに札入れを見つけて歓声を上げたが、中を調べてすぐに青くなった。

「ありましたか。よかったですね」

「ほ、他に何かなかったですか」

「他って何です?」

「あ、いやその……」

 口の中で言い訳して、あきらめ悪く近くのテーブルの下を覗きまくっていたが、女性客が憤慨して抗議したため男はすごすごと引き下がった。

「つけるぞワトスン!」

 手早く支払いを済ませると、二人は河岸をそぞろ歩く老若男女の中にまぎれて男を追った。

「あいつが財布の持ち主かな?」

「違うよ。あれはただの小心な下っ端だ……っと、失礼」

 通行人をよけそこねてよろめいたホームズを、転ぶ寸前に引っ張って助ける。

「危ないな。ほら、こっちだよ」

「悪いね。それで、例の小男は?」

「えーと……ああ、あの横丁に入って行くところだ」
「急ごう」




 建物の隙間のような細い通路を抜けるとそこは、すえた臭いの漂う裏通りだった。表にはあんなに降りそそいでいた日の光も、背の高い石の箱に遮られて地上までほとんど届かない。

 赤いチョッキの男は、黒ずんだ木のドアを開け、薄汚れた家に消えた。

「華の都と言われるパリ市内にも、こんなイーストエンドのような場所があるんだなあ」

 思わず呟いたワトスンは、ホームズの言葉に驚いた。

「さて、我々はどうやって入ろうか」

「入るのかい!?」

「当たり前だろ」

 不謹慎にも、難題を前にして目を輝かせる。物陰でため息をついたワトスンは、肩をつつかれて振り向いた。

「旦那がた、ここで何してなさるね」

 凶悪そうな顔をした人夫が二人、背後の逃げ道をふさいでいる。

「何って、大したことじゃないよ」

 相変わらず楽しそうにホームズが答える。彼らはあからさまに敵意を見せているのに、そんなものはどこ吹く風だった。

「午後の散歩の途中に、この愉快な小路に迷い込んでしまっただけさ」

「嘘をつくのは、よしてもらいてえな。あの家を見てやがったじゃねえか」

「知っているならどうして聞くんだい?」

 人夫はべっと唾を吐いた。

「イキがってンのもそこまでだぜ」

 ワトスンはステッキを構えて前に出た。

「こちらの紳士方は本気のようだよ、気をつけたまえ」

 ホームズは肩をすくめた。

「ぜいぜいそうさせてもらうよ」

 乱闘はごく数分だった。ワトスンは相手の一発目こそかわしたものの腹にパンチをくらって敷石に伸びてしまい、ホームズもろくに抵抗しないまま気を失った。





(2)に続く。
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