ベイカー街
□【バチカン・カメオの小事件】
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【バチカン・カメオの小事件】
この事件は、[バスカヴィル家の犬]のときに「バチカン・カメオの小事件」として話題になっているものである。事件そのものは大きな被害はなかったが、教皇庁はじめ各方面の都合と、途中私の身に起きたあることのために、正確に記録が出来ず当時公表できなかったことをお許しいただきたい。
ジョン・H・ワトスン
*****
それは4月も末に近い、穏やかに晴れたある日のこと。
ワトスンが広げた新聞には、ローマ教皇庁の新しい枢機卿、ドメニコ・ガスペリーニの記事が載っていた。
『先月教皇よりバチカン・カメオの親授を受け、最も若い枢機卿となったドメニコ・ガスペリーニ師が、ローマからヴィクトリア駅に到着した。明日よりナショナルギャラリー(国立美術館)で開かれる、バチカン絵画展に合わせての訪英。
到着直後にウェストミンスター寺院でミサを行った師は、ナショナルギャラリーでの開幕セレモニーに出席するほか、カンタベリ大司教との会談、女王陛下への拝謁など、16世紀以来交流の途絶えていた国教会と教皇庁との親善を図る予定である。』
列車から降りたところで、出迎えの見物客に手を振る写真が添えられている。
モノクロだから色はわからないが、着ているローブの左の襟元に、何となく丸く写っているのが枢機卿の証と言われるバチカン・カメオだろう。年の頃は三十代かと思われる、学者めいた気の小さそうな男だった。
バタンとドアが閉じる音がして顔を上げると、ホームズが居間に入って来たところだった。起きたばかりだというのにきちんと身支度を整えて、出かける格好をしている。
「どこか行くのかい」
起きぬけにしては、彼は機嫌が良かった。
「ナショナルギャラリーさ。バチカン絵画展の開幕セレモニーに招待されてたんだ。君も来るだろ?」
そういうことは昨日のうちに言ってほしい。そう思いながらワトスンは苦笑し新聞を放り投げた。
「5分で支度するよ!」
予想通りのワトスンの返事に、ホームズは満足げに笑みを浮かべ階下に叫んだ。
「ハドスンさーん!馬車を一台呼んで下さい!」
*****
きっかり5分で着替えたワトスンは、馬車の中で上着のホコリを払いネクタイの歪みを直した。ナショナルギャラリーに着くと、物見高い市民がもう行列を作っている。
ホームズが招待状を見せて中に入ると、一般人を締め出した館内は1mおきに警官が並んでいる。そんな厳戒態勢にもかかわらず、新聞記者の他政治家、女優などの有名人が赤いじゅうたんを引いた階段にまであふれ華やかな雰囲気だった。
失礼にならない程度に押しのけて、二人は式典の行われる特別展示室の入口へとたどり着いた。
ホームズがパチンと懐中時計を開く。
「どうやら間に合ったようだ。おや、レストレード君じゃないか」
いつも通り苦虫をかみつぶしたようなレストレードが、入口で睨みを利かせていた。
「ホームズさん!ワトスン先生も。どうしてここに」
「招待状をもらったんだよ。バチカンの絵にも興味があったのでね」
ダンスパーティが開けそうなほどに広い特別展示室には、バチカンが所有する様々な絵画が行き届いた間隔で並べられている。式典が終わるまでは中には入れないので、ワトスンも人々に交じって警官の肩越しに爪先立ってぐるっと室内を見回した。
ラファエロの<キリストの変容>やカラバッジオの<十字架降架>など、世界中に知られた作品ばかりである。その中で入口近くの壁際に、視界を遮るように衝立があることにワトスンが気が付いた。開幕セレモニーで使う何かが置いてあるのだろうか。
そのとき、ざわざわした人混みの向こうから声が上がった。
「皆さん!枢機卿閣下がお越しです!道を開けて下さい!」
ホールから階段へと並んだ人々が拍手する中、このナショナルギャラリーの館長で丸々とした身体のイタリア・ルネサンス絵画研究の第一人者、ヘイデン・テイラー博士が現れた。その後ろに、赤い法衣が見え隠れしている。
新聞で見た通りの小柄な丸メガネの青年が、華やかな場に慣れていないのか緊張してぎくしゃくと階段を上がって来る。
……と、枢機卿が階段につまずいた。倒れたはずみにビンの底のような分厚いメガネが飛ぶ。慌てて手探りで探す枢機卿に、ホームズが拾って手渡した。
「あ、ありがとうございます」
メガネをかけて恥ずかしそうに礼を言うと、道を開ける警官にやや硬い笑顔で会釈しながら、枢機卿は特別展示室に進んだ。館長の耳打ちを受け、衝立の裏に入る。
何だろう、と一同が見ていると彼はすぐに出てきて演台に立った。
「皆さま、本日はお集まりいただきありがとうございます」
「流暢な英語だ」
ホームズがひとり言のようにつぶやく。
「聖書の研究で成果を上げて枢機卿に任命されたと新聞にも載っていた。学者肌なんだよ、きっと猛勉強して来たんだろう」
ワトスンは人々の頭越しにドメニコ師に目を戻した。緊張もほぐれたようで、なめらかにあいさつが続いている。
「このたびは、ここイギリスで教皇庁が保管する品々をお目にかけることができ、大変嬉しく思っております。特に館長、ヘイデン・テイラー博士には、事前より多くのお骨折りをいただきました。とても感謝しております。さて――」
館長に向かって小さく拍手し、話を続けようとしたドメニコ師は、ふと後ろの絵に目をやり、突然青ざめて口をパクパクさせた。
「なあホームズ、あの枢機卿の首の……」
眉をひそめてドメニコ師を見ているホームズをつつく。
「首?」
「ニ、ニセモノだ……!」
叫び声にワトスンは言葉を飲み込んだ。
青年は法衣の裾を乱して絵の前に走る。
「これも、これも、これも……全部ニセモノにすり替えられている!」
「何ですと!?」
衝立の反対側の壁のそばで控えていたレストレードが声を上げる。
「どういうことですか館長!!」
枢機卿に詰め寄られたテイラー博士は、事の大きさに、はげ上がった頭にびっしりと汗をかいて震え出した。
「な、何てことだ……!!」
茫然自失の態で展示室から後ずさり、階段を踏み外す。
「危ないっ!」
近くにいたワトスンが腕をつかんだが、身体の大きい館長に引きずられるようにワトスンも階段を落ちた。
「ワトスン!?」
「キャーッ!」
来賓の女性客から悲鳴が上がる。ちょうど半フロア分落ちたワトスンは、館長をかばって下敷きになっていた。
打ち所が悪かったのか、額がパックリと割れて出血し、気を失ってピクリとも動かない。館長の方は、警官が揺り動かすとうめき声を上げて白髪眉の下の小さな目を開けた。
「ワトスン!!」
身を翻し駆け寄ったホームズは、額の傷をハンカチで押さえた。たちまち血を吸ってじっとりと濡れる。
「馬車を呼べ!二人を早く病院へ!」
来賓たちの不安なざわめきの中、レストレードの指示に警官が表へとすっ飛んで行く。
青ざめて傷を押さえるホームズの肩に、レストレードが手を置いた。
「ワトスン先生と館長は、警官に病院まで付き添わせます。ホームズさん、捜査に協力してもらえませんか」
馬車が見つかったらしい。警官たちがてきぱきと館長と、ホームズから傷を押さえる手を交代してワトスンを連れ出す。
「バーツに。バーツに運んでくれ」
衝撃に回らない脳を必死に働かせて、ホームズは警官に頼んだ。聖バーソロミュー病院――通称バーツ。ロンドンでも1、2を争う、設備とスタッフの質を誇る。あそこなら悪いようにはならないだろう。
(2)に続く。