ベイカー街

□【ビショップスゲイト宝石事件】 事件編
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【ビショップスゲイト宝石事件】



(1)


 それは1888年の初夏のこと。ウェールズ(イングランド島南西部)である事件を解決したホームズと私は、ロンドンに向かう急行列車に乗っていた。

 汽車はちょうど、リゾート地として有名な海辺の一帯を進んでいたが、ずっと強い風雨が吹きつけていて、本来なら観光客でごった返しているはずの『英国のリヴィエラ』と讃えられる美しい海岸線にも人の姿はなかった。

 天気があれほどまでに悪くなければ、何事も起こらなかったのではないかと思うと……こうして記録を書きながら、人にはどうしようもない運命というものを考えずにはいられない。




  *****




「あーあ。せっかくの紺碧の海も雲の色でどんよりだ」

 ワトスンが嘆くと、ホームズが読んでいた本から目を上げた。

「どうせこの列車は、この辺の駅は全部通過じゃないか」
「そうだけど、見ることだけでもできるかと思ってたのに」

 残念がっていると、ガクンと客車が揺れてかん高い音とともにブレーキがかかる。

「何があった?」

 ワトスンが腰を浮かし、窓の外やコンパートメントの廊下をのぞく。まばらな他の乗客も、不安そうな顔でそれぞれの個室から顔を出していた。

 完全に止まった列車は、しばらくしてゆっくりと走り出した。ほどなく見えてきた、小ぢんまりとした駅に停車する。

「ビショップスゲイト駅……おかしいな、この駅も通過するはずだが」

 ホームズが本を閉じると、制服の車掌がやって来てコンパートメントのドアを叩いた。扉を開けると、他の乗客たちも廊下に出ている。

「えーお客様に申し上げます!たった今連絡があったのですが、この先の山合いで崖崩れがありまして、線路がふさがれてしまっています!復旧まで2-3日かかるとのことで、申し訳ありませんがこの列車はここまでの運転とさせていただきます!」
「そんな!今日中にロンドンに戻れないと困るんだ!」
「他の路線に迂回できないのですか?あるいは乗り換えられる駅まで戻るとか」

 怒る客をなだめ、尋ねる客に答える。

「残念ながらこの路線は、途中に一切の接続がない盲腸線なんです。申し訳ありませんがこの街で宿を取っていただいて、復旧をお待ち下さい」

 乗客は皆ぶつくさ言いながらも、他に手段もなく列車を降りた。

 嵐でも来ているのか、木造駅舎にも雨が叩きつけている。こんな天気では馬車もそう走っている訳がなく、女性や子供連れへ先に譲って馬車の順番を待っていると、駅を離れたのはホームズとワトスンが一番最後だった。

 汽車から駅舎、駅舎から馬車への、ほんの数m屋根のない場所を通っただけで、吹きつける雨風に服がぐっしょりと水を吸う。

「うーっぷ!ひどい雨だな、インドのサイクロンよりすごいんじゃないか」
「お客さん、どちらまで!?」

 荷物を馬車の屋根に乗せて(これでトランクも雨ざらし確定だ)御者が、雨合羽から滴をしたたらせながら風に負けじと叫ぶ。

「どこか泊まらせてくれそうなホテルに連れて行ってくれ!」
「今までのお客さんでだいたいは埋まっちまったがねえ!まあ当たってみやしょう!」

 御者は風雨の中、海沿いのリゾートホテルをずっと回ってくれたが、どこも柱廊(ポルティコ)の陰に隠れたドアマンに満室だと断られ続けた。

 最後に街外れ、崖の下のそのホテルの前に止まると、御者が何か言う前にドアマンが拒否するように白手袋を横に振った。

 御者が舌打ちして濡れそぼった馬に鞭を当てようとしたとき、柱廊奥のティールームからウェイトレスの娘がこちらを見ているのにホームズは気付いた。制服の青いワンピースに白いエプロンをつけて、栗色の髪をメイドキャップに押し込んでいる。

 娘は身を翻し、ホテルの玄関から風に向かって去ろうとする馬車へ声を張り上げた。

「待ってー!待って下さい!お部屋なら何とかしますー!」
「今日は予約で満室なんだぞ、勝手なことをするなメアリ!」

 雨を避けながら怒鳴る大男のドアマンにも、15-6歳くらいの少女はひるまなかった。

「だって!こんな雨の日にわざわざ来られたお客さんを追い返せますか!? さぁ、どうぞ荷物をこちらへ」

 不承不承ドアマンも手を貸し、馬車から荷を下ろす。

「お客様も汽車に乗ってたんですか?」

 彼女も吹きこむ雨に濡れながら、ホームズとワトスンをロビーに通した。

「そうなんだよ、よくわかったね」
「今朝方、土砂崩れがあった話を聞いたんです。それで、もしかしたら〜、と思って」

 彼女がワトスンに向かってニッコリ微笑んだ時、白髪を撫でつけたフロント係がすっ飛んできた。

「お客様、この者がどう言ったか存じませんが、当ホテルは本日満室でして、本当にお部屋がご用意できないんです。こればっかりはどうしようもなく」
「ひどいですよ〜ウィガンさん、こんな天気の日にお客様を放り出すなんて!」
「お部屋がないのにどうやってお泊りいただくんだ!ベツレヘムのように馬小屋にお通しするのか?そっちの方が失礼だ、無責任なことをするな!」
「部屋ならあります!予約が入っていても、土砂崩れのせいで到着されてない方がいらっしゃるじゃないですか、そこにお泊まりいただければ」

 杓子定規なフロント係と、一歩も引かないウェイトレスの攻防にホームズが割り込んだ。

「無理は百も承知だ。鉄道が再開されるまでの2-3日でいいんだ、部屋を貸してもらえないか?」
「し、しかし」
「空き部屋のまま遊ばせておくよりいいだろう?君にも悪い話じゃないと思うが」

 ホームズが財布から取り出した紙幣の色に、フロント係の目が揺れた。

「……わかりました。ではお部屋へご案内いたしましょう」







(2)に続く。
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