ベイカー街
□【ヨークシアの悪魔崇拝者事件】 事件編
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「ワトスン……。来て、くれたのか……」
うわごとのように呟くと、疲れきったようなため息をついて目を閉じてしまう。ざっと見たところでは病気ではなく、何らかの理由で行動する気力を失ってしまったものらしい。
そのまま眠ってしまった彼の布団を引き上げてやって、私は見守っていた老婆とともに部屋を出た。
「他の医者は何と言っていましたか?」
「いいえぇ。シャーロックさまが、ただあなたさまを呼べと仰るので、そのようにしたんですのよ」
「そうだったんですか……。とにかく、このところ彼は働き詰めでしたからね。疲れがたまっていたんですよ。数日休めば回復するでしょう」
「まあぁ、よかったわ。これも先生のおかげです」
彼女は大げさな動作で喜んだ。
「いえいえ。ところでトマスさんはどちらですか?一言挨拶申し上げたいのだが」
「夫は居間にいますよ」
バーグ夫人の案内で質素な居間に入ると、赤ら顔の頑固そうな老人が煙草をふかしている。
「あなた。シャーロックさまのお友達の、ワトスン先生ですよ」
老人は立ち上がり、握手の手を差し出した。
「やあこれはこれは、わざわざお呼び立てしてすまんことです。こんなにすぐ来て下さるとは、シャーロックさまは本当に良いお友達を持たれました」
「友人として当然のことをしたまでですよ。初めまして、ワトスンと言います。……心臓がお悪いのですね、煙草は控えた方がいいですよ」
握手して忠告すると、トマス氏はドキリとして目をしばたたかせた。
「ど、どうしてそれを?」
「私は医者ですよ、このくらいのことはわかります。ちゃんと診てもらっているのでしょうね?」
「ええ、エクスターの先生に。ここらには心臓に良い薬草も生えてますでね。これは申し遅れましたな。地所の管理人のトマス・バーグです。これは妻のマーサです」
夫人はおじぎすると、お茶の用意をしに出て行った。
「ではバーグさん、あなたが依頼人なんですね?いったいどんな事件なんです?」
私が尋ねると、老人は強く首を振った。
「他所の方にはお話しできませんな。どうしても知りたければシャーロックさまに聞いて下さい」
「他所の方?シャーロックさま?あなた方は、彼と古い知り合いなんですか?」
「もちろんですとも。シャーロックさまはここでお生まれになったんですのよ」
ティーセットを運んできた夫人が、にこやかに言って盆を置いた。
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老夫婦の朝は早く、その日泊めてもらった私は物音で目を覚ましてしまった。二度寝するかとも思ったが、ホームズの様子も気になったのでそのまま起きることにする。
懐中時計を見ると、6時半だった。
「お早うございます、奥さん」
キッチンではマーサ夫人が忙しくやかんで湯を沸かしていた。外はあいにくの雨降りである。
「あらあ先生、お早うございます。奥さんなんて呼ばれたのは久しぶりですよ。どうぞマーサと呼んで下さいな」
コロコロと笑った彼女は、朝食の支度に取りかかった。
ホームズの部屋をノックすると、意に反して応えがある。
「目が覚めたのか。気分はどうだい?」
彼は上着を脱いだだけの姿で、起き上がっていた。
「おいおい、まだ寝てなきゃだめだよ」
「寝てなんかいられるか。僕には、仕事がある」
私はベッドの脇に腰かけた。
「君は、ここで生まれたそうだね。今回の事件についてトマスさんは何も教えてくれなかったが、それだから君は私には関係ないと言ったのか?」
「そうだ……、僕はこのマイクロフト農場で生まれた。そして18歳になるまでの大半をここで過ごした。父が死んだとき、僕は勘当されていたので何ひとつ遺産は手に入らなかったが、この先祖伝来の土地と領主の地位は長兄のシェリンフォードが受け継いだんだ」
「なるほど。それで?」
「シェリンフォードが、殺人を犯したらしい。あの日の電報でトマスが知らせてくれたんだが、でもそんなはずはない!僕は何としても兄の濡れ衣を晴らしてみせる」
ホームズの決意は固かったが、私にはいつもの彼らしくないように見えてならなかった。身内を疑いたくない気持ちはわかるが、『まず結論ありき』は間違った方向に進む第一歩ではないだろうか?
「……。お兄さんには会ったのかい」
「いや。まだここで調べられているのかと思ったが、もう警察署に入れられてしまっていた。それでまず現場を見に行ったんだが」
突然気分が悪くなったらしく、眉を寄せる。
「大丈夫か?水を飲むといい、落ち着くよ」
水差しの水を少しずつ飲ませると、ホームズは心底疲れ果てたように重いため息をついた。
「頼む、ワトスン。調査の間、一緒にいてくれないか。僕ひとりではとても平常心を保つことはできない。君の協力が必要なんだ」
ホームズが私を頼りにしてくれているとわかって嬉しかったが、彼の精神がこんなにまで弱っているのは心配だった。
「君のためなら、どんなことでもするよ。安心したまえ。でも君ほどの人間が落ち着きを失うなんて、いったいここで何があったんだ?」
ホームズは黙りこみ、シーツを握りしめた。
「あっ、言いたくなかったらいいんだ。立ち入った事を聞いてすまない」
「いや、こうなったからには、君はすべてを知らなくてはならない。覚悟はいいね」
「あ、ああ」
翳りのある瞳に見つめられ、私は気圧されてうなずく。
ホームズは目を転じた。窓の外には緑の芝生が雨にけぶっている。その向こうには、無人の館。
「むかし、むかし……この場所で、僕の母は父に殺されたんだ」
「シャーロックさま!」
入って来たトマスがたしなめるような声で遮ったが、ホームズは意に介さなかった。
「無駄なことだトマス。真実は何びとも隠すことはできない。……何の用だ?」
何か、こらえている顔つきで答える。
「ワトスン先生の朝食ができました。シャーロックさまの分も、すぐこちらに運びます」
「そうしてくれ。ワトスン、僕はもうひと眠りしたら少しは元気になっているだろうと思う。昼はここで食べよう、そして午後は屋敷に行く」
もう一度ホームズは窓を見た。
「そんな!起きるなんてまだ無理だよホームズ!」
「そうですともシャーロックさま!先生の仰る通りで」
「僕以外にだれが兄を救えるっていうんだ。だいたい電報一本で僕をこんな片田舎まで引っ張り出したのはトマス、お前だぞ」
「それとこれとは話が別です!」
私とトマス老が口々に止めたが、彼の意思は変わらなかった。
*****
約束したように、昼は一緒に食事をしながら事件以外のさまざまな話をしていると、雨が小降りになってきた。
「このままやんでくれるといいんだがね、ワトスン」
そう言って出かける準備をしているホームズは、朝よりも多少気力を取り戻したようだが、それでもまだ顔色は青かった。
残念ながら空は晴れず、霧雨の中を館へと向かう。
「あの館は呪われております」
出がけに呟かれた老人の言葉が、いつまでも耳に残った。
預かったカギを使い、ホームズが扉を開く。
ギギギ……ときしむ嫌な音がして、外の光が屋敷の内へと差し込んだ。
私は科学を信奉する人間ではあるが、足を踏み入れたとたん、何とも言えないよどんだ気配とけがれた空気がのしかかってきたように感じた。
重厚な石造りの館に、二人分の足音が冷たく響く。大きな角を持つ鹿の頭部の剥製や、騎士の鎧・兜など、いかにも地方領主の趣味らしきものが廊下に飾ってあったが、薄暗い屋敷の中では気味悪いだけだった。
ホームズの気鬱げな声がする。
「トマスによると、シェリンフォードは先年妻を亡くして以来、偏屈な人間、気難し屋になってしまったらしい。近所づきあいを絶ってしまったかわりに、遠くの怪しげな人物が客としてよく来ていた……。古くからの召使も次々と逃げ出し、残っているのはトマスとマーサだけだ」
「怪しげな人物?」
「君はロバート・スミス博士を知っているかい」
「聞いたこともないね」
「宗教学者と名乗っちゃいるがね、その筋では有名な人物だよ……悪魔崇拝者、サタニストとしてね。兄は彼を殺したと言われている」
ホームズは行き止まりの、分厚い木の扉を開けた。
「食堂だよ。犯行現場だ」
(3)へ続く。