ベイカー街

□【Deux café au lait,…】 (1) (2) (3) 後書き
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【Deux caf  au lait,…】



(2)


「ワトスン、ワトスン!」

 誰かが呼んでいる……はて、誰だろう。

 声の主に思い当たったとたん、ワトスンは飛び起きようとしてうめいた。

「いてててて……。ホームズ、大丈夫かい!?」

「気が付いたようだね。とりあえず無事で良かったよ」

「これが無事のうちなのかねえ」

 両手両足を縛られて、埃だらけの床に寝かされているワトスンは、必死で首を動かしあたりを見回した。

 そこはごく狭い部屋で、二方の壁にはびっしりと洋服が掛けられ、もう一方には化粧台がある。

「そう、劇場なんかによくある、衣裳部屋と言うやつだね」

「どうしてそんなところに運ばれたんだろう。どこの劇場かな」

「ここは赤いチョッキを着た紳士が入って行った家の中さ。僕は薄目を開けていたんだから間違いない」

「薄目を開けてただって!?」

 仰天してホームズを見ると、彼は先程の人夫のようなみすぼらしいシャツとスボンを身に着け、すっかり姿を変えていた。

「そうだよ。かくして我々は彼らのアジトに無事潜入できたわけだ。僕はちょっと家の中を探って来る。君、窮屈だろうけどもう少しそのままで頼むよ、すぐ戻って来るから」

 ホームズは足音を忍ばせて廊下に出た。右にはあのすさんだ裏通りへの玄関、左には二階へと続く階段がある。

 そして今、正面のドアからは怒声が漏れていた。

「マルタン!このとんまめ!!」

 この男は四・五十代、赤ら顔でいささか酒を飲んでいるとホームズは推理した。

「すみません、親方、申し訳ありません」

 平謝りに謝っているのは、カフェに現れた男だ。

「すみませんで済むか!! オレが落とした札入れがあったのはいい。なのにどうしてお宝だけが消えてるんだ?四の五の言ってないで探して来いっ!」

「は、はいっ!」

 ホームズは急いでドアから離れて二階へ上がった。

 予想通り、モノクルを見つけて下りてきてみると、一階はしんと静まり返っている。怒鳴っていた「親方」も、どこかへ行ってしまったらしい。

 過剰なまでに神経を研ぎ澄まして、ホームズは怒鳴り声が聞こえていたドアの前にかがみ込んだ。ポケットから針金を出し、鍵穴に差し込む。

 何度か動かしているうちに、ピンッ、と小さな音がして錠が外れた。

 素早くドアの内に入ると、そこは窓ひとつない小さな部屋だった。古びた机の上には、不似合いな上等の便箋が山となっている。いくつか読んだ後、ホームズは目的の手紙を探し出した。

「なるほど、そういうことか。……!」

 鍵を差し込む音がして、ホームズはさっと緊張した。親方が戻って来たらしい。

 だがこの部屋には逃げ場はおろか身を隠す場所もない――どうする!?

 一方ドアの外の親方は、異変に気付くことなくドアを開けて入って来た。

「マルタンのやつ!あの女、七時までには金を作ると言ったんだぞ!それを……うぉっ!?」

 ドアの陰に潜んでいたホームズは、背後から飛びかかり部屋にあったステッキで親方の髭だらけの首をねじり上げた。

「あっ、てめえ何しやがる!」

 物音を聞きつけて二階から下りて来た荒くれ人夫たちは、入って来るなりいきり立った。

「おっと諸君、動くなよ。動けば君らの親方がどうなるか……」

 じたばたと動く親方に比べて、ホームズの方は余裕たっぷりだった。

「ではまず向かいの衣裳部屋に行きましょうか、君たちはそのままで構わないよ」

 腕にものを言わせたくても、親方が人質では手が出せない。人夫たちは拳を固めつつもホームズの言葉に従った。

「うぐう……、貴様、誰だ……!」

 うめいて尋ねる親方に、彼はにっこり笑って見せた。

「君らの御主人なら知っているさ。よろしく伝えてくれたまえ」

「オ、オレにゃ主なんて……うっ」

「おやおやそんなこと言っていいのかい?ALの頭文字を持つ人に、告げ口してもいいんだよ」

「ぐっ……」

 首にステッキが食い込んで喋れない親方に命じて、ワトスンの縄を解かせる。

「ホームズ!これはいったい!?」

「このご親切な方々が、前非を悔いて僕たちを解放してくれるのさ。そうですよね、親方」

「むぐう……!」

 親方はうめくことしかできない。人夫たちは悔しげに廊下で拳を握っている。

「それでは諸君、ごきげんよう。僕らが外に出るまで、動かずに見送ってくれたまえ。行こうか、ワトスン」

「何がどうなっているのか説明してくれよ。僕にはさっぱりだ」

「デザートは食事の最後だよ。それよりも、ドアを開けてくれないか。この紳士のおかげで両手が使えないものでね」

 ワトスンが木の扉を開けると、待ち構えたように人夫たちが口々にわめきながら追って来た。

「こっちだ!」

 羽交い締めにしていた親方を突き飛ばして、ホームズは全速力で走った。ワトスンも続いたが、耳元をヒュンと何かがかすめた。壁にぶつかって落ちたものを見れば、ジャックナイフである。

 セーヌ河畔の大通りに出ると、ものすごいスピードで荷馬車がやって来る。

 ホームズはニヤッとした。

「乗るよ、ワトスン!」

 馬車が目の前をかすめた瞬間、ホームズは荷台に掴まった。

「えっ!?」

 あっけに取られたワトスンは、迫る人夫たちの姿を見て慌てて荷馬車を追いかけた。

「ホームズ!」

 いっぱいに手を伸ばし、差しのべられたホームズの華奢な指を幾度かすり抜けた後に掴む。

 見かけによらない力強さで引き上げられたときには、息が切れて何も言えなかった。

「まったく、君にはハラハラさせられっぱなしだよ!」

 怒ったような言葉に、荒い息の中から言い返す。

「それは、こっちの……セリフだよ」

 二人は顔を合わせ、すぐに笑い出した。それでこちらに気付いたのか、馬車のスピードが落ちる。

「ちょっとあんたら、何なんだい!?」

 大声で尋ねる御者の男に、ホームズが答える。

「珍しい乗り物に、ぜひ乗ってみたかったのさ!ねえ君、このままポン・ヌフを渡ってくれれば二十フラン出すけどどうだい?」

「冗談じゃねえ、その十倍もらったってごめんだね!あんたらみたいなアホに付き合ってる暇はねえんだ、さっさと降りてくんな!」

 御者が気短に叫び返す。

 荷馬車はその場で止まり、二人はパリの街角に放り出された。

「これからどうする?」

 興奮がおさまらないのか、くすくす笑っていたホームズは悪戯っぽい目でワトスンを見た。

「そう言えば君、僕の服を持って来てくれなかったね」

「あっごめん。忘れてた」

「まあいいさ。貴重品は持ってたからね」

 彼は夕方の光にイヤリングをかざした。

「ところで、今夜は予定があったと思うんだが」

「うん、八時からジャン・クロードの演奏会だ」

「それならちょうどいい。日も暮れて来たことだし、まずはホテルに戻って着替えよう。それから軽く腹ごしらえして、演奏会に行く前に気の毒な御婦人に会ってこれをお返しする」

「持ち主がわかったのかい!?」

「まあね。あの家の探索は実に有意義なものだったよ」

 活劇の締めくくりにもう一度だけ微笑むと、ホームズは辻馬車を呼び止めた。






(3)へ続く。
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