ベイカー街
□【バチカン・カメオの小事件】
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【バチカン・カメオの小事件】
(2)
夕方、捜査が徒労に終わったホームズは、レストレードとともにバーツへと馬車を急がせた。
館長を見舞って来るというレストレードと別れ、ホームズは受付で聞いたワトスンの病室へ向かった。ほの暗い廊下にずらりとドアが並び、シスター風の看護婦が時折通りかかる。
「ワトスン!大丈夫か!?」
ワトスンは額に厚く包帯を巻き、入院患者用のガウンを着てベッドに上半身を起こしている。ベッド脇に立つ医師の質問に答えているところらしかった。
飛び込んだホームズの剣幕に、彼は困ったような顔をした。
「あの……、どちらさまですか?」
「は……!??」
救いを求めて医師を見ると、白衣を着た長身の、その医師には見覚えがあった。イギリス人には珍しい金髪碧眼。人づきあいが良く、共同下宿人を探していたホームズとワトスンを引き合わせてくれた、二人の後輩。
「スタンフォード……!」
ホームズがみなまで言う前に、スタンフォードは書き込んでいたカルテをパタンと閉じた。
「ゆっくり休んで下さい、ワトスン先生。あとでまた来ます」
ホームズに目くばせし、病室を出る。
「どういうことだスタンフォード!」
暗くなり始めた外の景色を背に、こちらに向き直る。
「階段から落ちたと聞きましたが?」
「そうだ。ナショナルギャラリーで」
「額の傷は大したことはありません、2針縫っただけです。しかし衝撃で記憶を失っている」
「何だって……!?」
「自分が誰か、今まで何をしていたのか全く憶えていないんです」
「大丈夫なのか!?」
スタンフォードは、白衣のポケットに手を入れ窓の外を見た。ポプラの並木と家々の屋根が、徐々に夜に飲み込まれていく。
「額を打ったせいです、一時的に記憶が混乱しているんでしょう。そのうち元に戻りますが、それがいつになるかはわかりません」
重い沈黙が降りる。しんと静まり返りひんやりとした廊下には、もう看護婦も通らない。
「……あなたのせいですよ」
「?」
ホームズは眉をひそめてスタンフォードを見た。いつも笑顔を絶やさない人気者の彼が、暗いまなざしで強くホームズを見つめている。
「どうせあなたが、あの人を危険にさらしたんでしょう。あなたが危ない目に遭うのは勝手です。でもまともな神経の男なら、友人まで危険にさらす訳がない。友達をこんなひどい目に遭わせて、あなたは平気なんですか!?」
事情を知らないスタンフォードの糾弾は、ホームズの心臓を鋭く刺した。
「……君に言われる筋合いはない」
「僕はワトスン先生の友人だ!……もう来ないで下さい、あの人のことはこちらで看病します」
「!!」
スタンフォードは病室へ戻り、ホームズは暗い廊下にひとり残された。
*****
幸い軽傷だった館長の退院を待って、現場検証が行われた。
贋作とわかってからもう数日がたつ。足跡などの証拠は望み薄のため、ホームズは捜査の主導権をレストレードに譲って博士と並んで立っていた。
「御友人のドクター・ワトスンには大変なご迷惑を」
テイラー博士は大きな身体をちぢこませ、手と額の汗をぬぐいながらひたすら恐縮している。
「……ニセモノであることに、全然気付かなかったんですか?」
いつまでも止まらない、博士の繰り言を邪険に遮ってホームズは尋ねた。
「はあ、全く。搬入もいつも使っている業者でしたし、まさかすり替えられているなんて」
絵の大きさや彫刻の重さ、搬入するルートを調べている警官たちの様子を見ながらレストレードが付け加える。
「業者の方は確認を取りました。パリ、ローマにも電報を打って、輸送経路に問題がなかったかも調べています」
「いつになく素早い仕事ぶりだねレストレード君。ところで館長、これらの品々は鑑定には出さないんですか?」
頭痛をこらえ、ホームズは展示室内を早足で歩き回りながら杖で床を叩いた。
頭痛の原因はわかっている。彼がいない不安と、このまま永遠に失ってしまうのではないかという焦りだ。
「どうしてそんな必要が?鑑定もただじゃありません、ニセモノにそんなお金払っても無駄でしょう。警部さんのお許しさえ出れば、すぐにでもこのいまいましい贋作どもを運び出したいのですがね」
「現場保持のため、もうしばらく我慢して下さい」
レストレードの返事は取り付く島もない。
「そう言えば警部、ドメニコ師はどうしてる?」
「ランガム・ホテルにいますよ。ショックで寝込んでいます。彼も早く帰りたがっていますが、許可を出していません」
ドメニコ師については、階段を落ちる前に彼が何か言いかけていた。ホームズ自身も何か大切なことを忘れているような気がして、ズキズキと痛むこめかみを押さえる。
「……この衝立の裏は?」
痛みをこらえてホームズは衝立の裏をのぞきこんだ。あの時は視界を遮るように置かれていたが、今は壁に平行に片付けられている。
館長がハンカチを揉みながら答えた。
「隣の部屋への扉です。順路によってはこの扉を開けて見学者に通ってもらうんですが、今回はこの部屋だけなので塞いでおきました」
「隣の部屋には何があるんです?」
「常設展示ですよ。ロマン主義の絵画です」
ホームズは警官の手を借り衝立を動かし、扉を開けた。館長の言葉通り、隣の部屋にはよく知られたターナーの、嵐に翻弄される帆船の絵が掲げられている。
「あのときドメニコ師が一度衝立の裏に入ったのはなぜです?」
「あいさつのカンニングペーパーを渡したんですよ」
館長に尋ねながら絵の一枚一枚、彫刻のひとつひとつを見て行く。部屋中のどこにも、怪しいところは見つからなかった。
テイラー博士に見送られて建物を出ると、レストレードがちらりとこちらを伺うようなまなざしをした。
「落ちつかなげですなホームズさん」
貧乏ゆすりのように、無意識のうちに杖で敷石を叩いていた。さぞ耳触りだったことだろう。
「え?……あ、ああ、失礼」
「ワトスン先生の容態を聞きました。心配ですな」
「……」
同情を含んだ視線を見るのが嫌で、ホームズは目を閉じ顔をそむけた。レストレードにまで、ワトスンを失って取り乱す心に気付かれてしまうなんて。全く自分はどうかしている。ひとりでも上手くやっていけると、ずっと思っていたのに――。
目が熱くなって、ホームズは急いでまばたきをした。
レストレードが手を上げると、すぐに二輪馬車が停まる。
「ベイカー街へ帰るならお送りしますよ」
「いや……。いや、少し歩いて考えたい。ありがとう」
「そうですか。それじゃあまた。何かわかったらお知らせしますよ、そちらも……」
「わかってるよ。すぐ知らせる」
軽く手を上げ別れを告げて、ホームズは雑踏の中をあてもなく歩き出す。ベイカー街に帰れば嫌でもワトスンの不在が目につきそうで、事件の日から戻っていなかった。
(3)に続く。