ベイカー街
□【ビショップスゲイト宝石事件】 事件編
2ページ/8ページ
【ビショップスゲイト宝石事件】
(2)
案内された部屋は、オーシャンビューの広々としたツインルームだった。ベルボーイが荷物を置いて去るのと入れ替わりに、ノックの音がしてタオルを抱えた、さっきの救いの女神が現れた。
「失礼しまーす。ビショップスゲイト・スターホテルへようこそ!これ、服やお荷物拭くのに使って下さ〜い」
ワトスンが受け取り、ホームズにも渡す。
「ありがとう。さっきも助かったよ。でも君はカフェのウェイトレスだろう?私たちに構ってて大丈夫かい?」
「ルームメイド兼ウェイトレス兼洗濯係兼、何でもやってます!ここ、部屋数もスタッフも少ないんで〜」
「なまりがあるね。もしかしてオーストラリア出身かい?」
ワトスンの言葉に、娘の表情がパッと明るくなった。
「そうなんです〜!もしかしてお客様もですか!?」
「ああ。子供のころ、オーストラリアにいたことがあるよ」
「そうですか〜!この辺にオーストラリア出身の方は全然いないしお客様としても来られないんで、嬉しいです!私、メアリ・サンダーランドって言います!」
「私はジョン・H・ワトスン、医者だよ。彼はシャーロック・ホームズ、名探偵だ」
「お名前は聞いたことあります!お目にかかれて光栄です〜!」
「どうも」
そっけなく返し、ホームズはメアリの持って来たタオルで上着の水分を拭う。
「やっぱり泊まりに来る人はだいたいロンドンから?」
「そうなんですよ〜。ここの一番の魅力はきれいな海なんですけど、今日は……」
メアリはレースのカーテンを開けた。どんよりと曇った空と、吹きつける風、白い波しぶきを上げる暗い海。
「汽車が止まっちゃうなんて災難でしたね〜」
「ロンドンも雨は多いから慣れてるつもりだけど、流石に今日は参ったよ」
「明日は晴れるといいですねー。カフェからは浜辺まで下りられるんですよ」
「へえ、それは楽しみだな。朝食はそのカフェでいただけるのかい?」
「ええ、お泊りの方は代金に朝食代が含まれていますから、どうぞお越し下さいね」
荷物を解いていたホームズは楽しくお喋りする2人の間に無遠慮に割り込んだ。
「そこの崖の上に屋敷があったけど、あれは誰の?」
「ここら一帯の大地主、サー・ウォルバーのお屋敷です。このホテルのオーナーですけど、私も会ったことはありません」
「なるほど。先にシャワー使わせてもらうよ」
いつも以上に無愛想に告げて、ホームズはバスルームの扉を開けた。
「あ、洗濯物あれば出して下さいね。……それにしても先生にお会いできて嬉しいです!ここにいても、オーストラリアに関係ある人と全然会えないんですもん」
少女らしい、きらきらした瞳にワトスンは苦笑した。
「いつイギリスに来たんだい?」
「3ヶ月前です!母が亡くなって、」
メアリの話を遮るかのように、廊下からノックの音がして彼女の同僚が呼びに来た。流石に長話をする暇はないらしい。
*****
翌朝、カフェに行くと他のメイドたちとともにメアリも忙しく立ち働いていた。
「おはよう、メアリ。何かいいニュースはあるかい?」
「あ、ワトスン先生、ホームズさん、おはようございます! 駅からはまだ何も連絡はないみたいですよ」
嵐は一夜で去り、カフェ奥に目を向ければガラス越しによく晴れた空と、穏やかに打ち寄せる真っ青な海が見渡せた。
「確かに素晴らしい景色だね」
「でしょう?外のテラスから下りて行けますから、よろしければどうぞ。お食事お持ちしますね〜」
朝食の卵の火の通り具合は完璧だった。殻を割りながら、ホームズはさっきから全く喋らない。
「ホームズ。何を怒ってるんだ?」
「別に、怒ってなんかない」
平静な声にワトスンが眉を寄せると、メアリがフルーツの皿を運んできた。
「ほら先生、これ」
首元から何かを引っ張りだすと、こっそりと見せてくれる。見事なブラックオパールのペンダントだった。
「私、父を捜しにこの街に来たんです。鉱山技師をしていた父は私が生まれる前にイギリスに帰ってしまったんですが、母は父をずっと待ったまま亡くなってしまって……。
父はこの街の出身で、このペンダントがあればきっと見つかるだろうからって、母が今わの際にこれをくれたんです」
青い地色に、赤や緑の光がゆらゆらと輝く。
「素晴らしい品じゃないか。ブラック・オパールとはまた珍しい」
ワトスンが感嘆すると、ホームズもちらりとペンダントに目をやった。
「オーストラリアはオパールの産地だからね」
「ええ、父もこのオパールの原石を持っているはずと、母も言ってました。でもここに来て3ヶ月になるけど、全然手がかりがなくて。あ、お茶のおかわり持って来ますね」
くるりと身を翻したメアリが、新しいティーポットを手にテーブルの間をすり抜けようとした、その時。
手前のテーブルの客が急に立ち上がり、イスが彼女にぶつかった。
「きゃっ!」「うわっつっ!」
ベージュのスリーピースを着た紳士が、熱い紅茶を頭からかぶって尻もちをついている。
年の頃は30歳くらい。初夏に相応しい背広の生地は肘や膝など、ところどころ薄くなっているものの上等な仕立てである。水色の瞳に理知的な角ばったメガネをかけ、さらさらの白茶色の髪を、後ろだけ襟元につくほど長めに伸ばしていた。
「あちち、あちっ!」
「大変!!」
飛び上がったメアリは、テーブルの花を引き抜くと花瓶の水を男性にぶちまけた。
「ぶふっ!……いったい何なんだ君は!」
「も、申し訳ありません!」
身体を2つに折るほどに彼女が頭を下げると、リボンとポニーテールも下を向く。そこにワトスンが割って入った。
「まあまあ、そんなに怒らなくても」
「何なんですかあなたは!」
怒りのあまり顔を真っ赤にして、ワトスンにもかみつく。
「医者ですよ。ここの泊まり客です。ちょっと失礼」
水がしたたる、頭から首までを手早く診察する。
「水で冷やしたおかげで、大したことにはなってませんな。彼女とてわざとではないのだから、許してやってはどうです」
「わざとでなくても関係ない!こんな侮辱は初めてだ!」
紳士がワトスンの腕を振り払うと、騒ぎに気付いたのか中年の支配人が走って来る。
「申し訳ありませんサー・ウォルバー、あとできつく叱っておきますので」
ワトスンとホームズは顔を見合わせた。サー・ウォルバーと言えばこのホテルのオーナーで大地主という話ではなかったか?
ワトスンが席に戻ると、有爵の大地主はテーブルのナプキンで髪を拭きつつ、声を低くして支配人を睨みながら何事か告げる。支配人は苦慮している様子でメアリを下がらせ、オーナーと共にカフェを出て行った。
「何だあの男は。紅茶をかぶることがあんなに怒ることか?」
憤然と座ったワトスンへ、近くの席の若いカップルが同情の視線を送る。
「ヤケドしそうになったこともそうだが、一張羅に取れないしみをつれられては、君も頭に来るんじゃないのかね」
「僕はあんなに短気じゃないよ!」
「そうかい」
気のないそぶりで、ホームズは別のメイドが運んで来たかわりの紅茶をすすった。
(3)に続く。