〇一陣の風[完結長編]

□文月
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梅雨は明け、夏の日差しが照り付ける。
緩い風に煽られて鳴る風鈴の音も
蝉の大合唱と合わさって、ただ煩いばかりだ。

イライラする。

屯所の道場で隊士達の稽古を眺めながら土方は溜め息をついた。

先日捕らえた浪人から近江屋の悪事の裏が取れると踏んでいたのだが、その男は下っ端もいいところだった。雇い主が何者かは元より、襲撃相手が真選組の副長だという事すら知らされていなかったのだ。
お陰で、近江屋は二日後に決まっていた取り引きも行わず、今は大人しく身を潜めてしまっている。

額の傷は何針も縫われ、大袈裟に包帯が巻かれていたが、今は大きなテープが貼り付けられているだけだ。
それよりも。
ちょっとした切り傷だと医者に申告せずに放置していた脇腹。
蒸し暑さもあってか、化膿してきた。軽い傷だと侮っていたが、やはり刀傷。
(‥ちっ‥!)

そして尚、己を苛立たせるのはあの銀髪の男、万事屋だった。

橋の上で必死に自分の名を呼ぶ声。まるで‥女でも見るような瞳で顔を近付けてきた。
そして寸での距離まできても動けなかった自分。

イライラする。



バシーンッッッ!!

「ぅおわあぁぁっ!?」
突然、竹刀が物凄い勢いで飛んできて壁に当たって落ちる。
咄嗟に身を避けなかったら顔面直撃だ。

「おっと、すいやせん土方さん。‥‥手が滑っちまいました。」
「ウソつけえぇぇぇ!」

また傷が開いた。

ビリビリとする痛みに続いて取り敢えず巻いた晒が濡れていく。
(くそっ。地味に痛え‥)

竹刀を取りに来た総悟が呟く。
「臭え。」
「あん!?」
土方がピクッと反応する。

「土方さん。久しぶりにお手合わせ願えますかい。」

(まずい‥)
今日は平隊士に指南するだけのつもりでここにいた。腹の傷がこの状態で総悟の相手など御免被りたい。
「おぉーっ!」
隊士共が盛り上がっている。

「どうですかい、土方さん。隊士達もあの通りですし。」
「ああ。‥また今度な‥。」
稽古ごときで傷が悪化しては隊務に差し支える。土方は努めて冷静に答えた。
「大丈夫ですよ、土方さん。副長が隊長に打ちのめされても、誰も非難いたしやせんぜ。」
「‥上等だ。」

やってしまった。
あっさり総悟に乗せられた土方は竹刀を手に道場の中央へ進んだ。



バシン、バシンと竹刀のぶつかる音が響く。
(腹にも響く!)
出来るだけ衝撃を受け流すように竹刀を振る。
上から下から、右から左から、休み無く繰り出される竹刀に一歩、二歩、と足が後退していく。
「どうしたんですかいっ、そんなんじゃっ、現場に出てもっ、犬死にですぜっ?」
手を止める事無く総悟が言う。
「はん!心配、してくれんのかよっ?」
そう返せば総悟から鋭い空気が漂った。
竹刀を後ろに引く形で構える。

(三段突き‥!)
三段突きは総悟の得意技である。
その速さと正確さは天賦の才と言わざるを得ない。
万全の状態でも避けきれるか定かではないのに、これでは分が悪すぎる。

腹を決めて、土方も下段に構え呼吸を計った。負傷している右脇腹を庇うように、右に竹刀を下げる。


総悟の眉がピクリと上がった。
(間違いねぇ。土方の野郎が庇ってんのは右の脇腹だ。)

総悟は気づいていた。土方が大袈裟な額の傷以外にも怪我をしている事に。
手合わせをしながら探っていたが、これでハッキリした。
総悟の三段突きを受ける時、土方は決まって得意の左下段で構える。それが今は右の構え。

土方とは長い付き合いだ。

総悟の気合いが最も高まった時、
「おおー!精が出るな!」
張り詰めた空気が一瞬で霧散した。

「近藤さん!」
隊士達の視線も、揚々と道場に入って来る近藤に向けられた。
「悪い悪い!続けてくれ。」
近藤は言うと上座にどっかりと腰を下ろした。

「‥もういいでさ。土方さんありがとうございやした。」
棒読みしながら総悟はスタスタと
出ていった。

(た‥たすかった‥)
土方は竹刀を下ろして出ていく総悟を見送った。

「邪魔しちまったようだな。」
「あいつの気まぐれはいつもの事だ。気にすんな。」
これは本音だ。



「トシよ。」
近藤と土方は並んで座っている。場内では隊士達の打ち稽古が続けられている。
「実はな。」
近藤は言いよどんでいる。目は隊士を見ているようでいて遠くの何も見ていないようだった。
土方は言葉を発する事無く、ただ前を見ていた。
(‥良くない話か。)

「近江屋の件から手を引け、とのお達しだ。」
「‥‥‥‥。」
(やはりそんなところか。)

「背後に天人が絡んでいるらしい。いや、矛盾しているのは分かっているさ。武器の横流しを黙認しては幕府が危うい。だがその幕府からの命令だ。‥俺もこのまま黙って見過ごすつもりは無いが、しばらくは下手に動かん方が賢明だろう。」
土方が黙っていると近藤は一気に言葉を繋いだのだった。
「‥すまん、トシ。」
輩に傷を負わされながら、近江屋を摘発できない事に申し訳ないと思ったのであろうか。
近藤は詫びた。

「‥あんたが謝る事っちゃねぇ。
今の幕府は腐ってる。テメエでテメエの首絞めてやがるだけだ。俺は近藤さんの言う通りに進むだけだぜ。」
そう告げて近藤を見ると、先より深刻な顔をしている。


「真選組の副長を二人にする。」

近藤はやっと土方の顔を見て、そう告げた。
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