「卒業後の進路?」
駅前のバー。
魚塚がバイトをしているそこに、神は深刻そうな顔でやってきた。
大学も三年目だった。
もうそろそろ就職に本腰を入れなければ、と周囲が浮き足立って殺伐とする頃、神も例外なく悩んでいるようだった。
「そう。魚塚、そういう話全然しないだろ……? 実際どうなんよ」
バーのマスターが作ったギムレットを揺らして、神は言う。そういえば、まだ神には言っていなかったな、と魚塚は頬を掻いた。
「俺、マスターの跡を継ごうと思ってる」
「は?! なんだよそれ、初耳だぞ?!」
「そうだな。すまない、言ってなかった」
「酷いな! いつも一緒に居るのに!」
不満そうに口を尖らせる神に苦笑した。
大学に入学すると同時に勤め始めた駅前のバーは、年老いたマスターが営んでいる。
年老いているとはいえ、名のあるバーテンダーのマスターに弟子入りした魚塚は、センスが良かったのか、今ではマスターと並んで客にカクテルを振舞える腕になっていた。
その腕を見込んで、マスターが店を任せてくれることになっていた。
魚塚が大学を卒業したら、もう少し繁華街の方へと店を移し、そこで新しく魚塚がマスターの店を開く。
そう告げると、神は、自分のことのように嬉しそうに笑って、それからカクテルグラスをグッと煽ってギムレットを飲み干した。
「そっか、魚塚は将来がちゃんと見えてんだな……」
「神のおかげだよ。神が根気よく俺の『人嫌い』に付き合ってくれなかったら、俺は店なんか持つ自信なかった」
言えば、神はふにゃりと嬉しそうに笑う。
結局、神は、魚塚がどうして他人との距離を置こうとするのかを問い詰めることは二度としなかった。
ただ隣に寄り添って、控えめに他人と魚塚を近づける様に画策する。
最初はそれに戸惑ったものの、気付けば、『あの経験』以前の様に、魚塚の周りを覆う壁は無くなっていた。
神は、魚塚に何があったのかは知らないはずなのに、見事、魚塚を改善させてくれたのだ。
心から、神には感謝している。
「……そーかぁ、店を持つのか……楽しみだな、魚塚の店」
「不安だらけだけどな。でも、頑張るよ」
魚塚が微笑めば、神も控えめに微笑んだ。
空になったグラスへと視線を遣れば、神は同じくギムレットを頼んだ。
「魚塚」
不意に呼ばれ、カクテルを作る手を止めた。神の真剣な表情が、魚塚を見つめていた。
「俺、親父の会社継ぐ」
「……あれだけ嫌がってたのに?」
魚塚は目を丸めて神を見つめ返した。
神の父親は、とある財閥を仕切る大株主だ。
その長男の神が会社を継ぐことは必然ではあったが、神自身は、それを嫌がっていた。
神は、社員を駒のように扱う父親を毛嫌っていたし、自分の足で周囲を見て歩くのが好きな奔放な神にとって、会社に縛られるという事が窮屈で仕方がなかったらしい。
だからこそ、ずっと『別の道』を探していたはずなのに、どうして。
出来上がったギムレットを神に差し出せば、神はふっと微笑んだ。
「いつまでもフラフラ遊び人してるわけにもいかないしな。……まあ、やってみるかって思っただけ」
「……そっか」
訝しげに眉を寄せた魚塚に、神はニッといつもの快活な笑みを見せる。グラスをくらくらと揺らして、実は、と切り出した。
「魚塚が店出すって言うから、ちょっと対抗心燃やした」
「なんだよそれ」
悪戯気に緩んだ神に表情に、思わず苦笑した。
「でも、そうしたらさ……俺が社長さんになったら、お前ともなかなか会えなくなるのかな……」
そう呟いた神の、甘い、けれども暗い声が、耳に残った。
ただの親友としての寂しさだとは気付いていたはずなのに、その声が、あまりに甘すぎた。
いつからか、神に対して、並々ならぬ執着を抱くようになっていた。
それに気付いて、吐き気がした。
それは、高校の頃、自分が加賀尾に向けられて、心底気持ちが悪いと思っていた、あの執着と同じだったからだ。
優しくて、何も言わずとも自分を解ってくれる、いつも支えてくれる神に、自分は、醜い好意を抱いていた。
そしてそれは、魚塚と神の進む道が分かれたことによって、はっきりと表に出ては魚塚を追い詰める。
どれ程抑えても、神が好きだった。
キスをした。
魚塚の家に遊びに来ていた神の胸倉を引き寄せて、半ば強引に。
ほんの一瞬、神が舌を絡ませて応えてくれたことに歓喜して、そして次の瞬間絶望した。
思い切りよく顔面を殴られたのは、高校の頃以来だった。
殴った張本人は、呆然としたように魚塚を見下ろして、それから恐る恐る自分の手を見つめた。
「っごめん、魚塚……!!」
そう言って泣きそうな顔で、紅くなった頬を手で包んだ神に、魚塚は苦笑した。
知っていた。本当なら、拒否されるはずの感情だと。
高校時代、同性に嬲られ続けた自分は異常で、それでいて、今もそれは変わらなくて。
何度もごめんと謝って、殴った頬を労わる様に撫でる神に、泣きそうになった。
ごめんと言わなければいけないのは自分の方だ。
それなのに、言葉が出てこなかった。
失恋したんだと、妙に冷静に、頭の中で反復した。
「あれ? 今日は少年達いないの?」
開店前だというのに無遠慮に扉を開いて入ってきた親友に、魚塚は苦笑する。
見るからに上質な細いシルエットのスーツに身を包んだ神は、ワックスで撫で付けた髪を掻きあげて、当然のようにカウンター席に座った。
開店にはまだ二時間近く余裕がある。
グラスを拭いていた手を止め、魚塚はやれやれと首を振った。
魚塚がバーを経営し始めてから、十五年ほど経つ。
そして、神が大財閥のトップに立ってからも、十五年ほど。
最初の数年は、忙しくて、神との交流も薄れていた。それでいいと思っていた。
魚塚がキスをして、殴られたあの日。
あれは魚塚が酔って、うっかり神を女性だと思い込んだからだ、ということになった。
神は、魚塚を殴ったことを激しく後悔し、そして魚塚は、危うく神との信頼関係を失うところだったということを後悔した。
神との、居心地の良い関係を壊したくはない。だからこそ、魚塚は、神への好意を塞ぎ込むことに決めた。
それなのに、神はどんどん魚塚との距離を詰める。それは、友人という枠であったとしても、魚塚にとっては、辛かった。
それでも今も神と『友人』でいられることを、魚塚は嬉しく思う。一生に一人しか現れないであろう、本当の『親友』が居ることが嬉しかった。
「少年達って、憐二とすぐりのことか? まだ来ないよ」
何時だと思ってんだよ、と時計を顎で指せば、神はニッと変わらぬ笑みで笑う。
神も魚塚も、もう四十を越えた。
元から容姿の良かった神は、大財閥のトップという肩書きの凄みに劣らぬような、色気のある良い男になった。
時折、別人のようにふっと艶やかな笑みを向けるようになった神には、まだ慣れない。
気を抜いていれば、すぐにその色気に目を奪われてしまう。
「今日はさぁ、なんか魚塚に早く会いたくなったんだよね」
「社長さんのくせに、ふらふら出歩いてていいのか」
「秘書が優秀だからね」
「秘書に同情するよ」
軽口を返せば、神は楽しげにくくっと笑う。
これでいい。この関係がいい。
そう言い聞かせる。
「魚塚」
時折、神が自分を呼ぶ声が甘く感じても、それは気のせいだと、言い聞かせる。
友情の範囲。神は、『親友』だ。
「何飲む?」
問えば、そうだな、と神はちらりと壁に掛けられたブラックボードを眺める。
そこに書かれたメニューを吟味してから、神は微笑んだ。
「ルシアン」
「かしこまりました」
魚塚は、ボトルを取る。
ウオッカと、ジン、そして、カカオのリキュールだ。
魚塚がグラスを棚から下ろすと同時に、カランカランと音を立てて、開店前の扉が開かれた。