ウィスキー・ハイボール

<ソーダ × ウィスキー>









「伊須木課長ってさ、一生仕事一筋って感じだよな」
「あー解る。仕事が恋人、みたいな」
「あれだけ仕事が出来て、それでいて『あの』性格だろ?いざ結婚しようとしても難しいだろうな」


 ─どうしてこうも、若い子達というのは、他人の噂や悪口にも近い酷評で華を咲かせられるのだろうか。

 喫煙室を兼ねた休憩スペースに集まる見知った部下たちの声に、伊須木は足を止めた。
 彼らからは見えぬ所で壁に背を凭れさせると、ドッと疲れが襲ってくる。

「今年で四十だっけ、伊須木課長」
「え、そうなの? 見た目はもっと若いのに」
「綺麗なんだけどさ、なんか……近寄りがたいよな」
「性格キツイしな」

 自販機でブラックのコーヒーを買いに来ただけだったというのに、こんな会話を聞いてしまうとは、自分もなかなかにタイミングが悪い。
 伊須木は、掛けていた縁無しの華奢な眼鏡をそっと外して、目を伏せる。

「聞いたか? 営業課の氷室課長の話。この間、会議で伊須木課長と衝突して、大勢の前でけちょんけちょんにされたってさ」
「まじで? 氷室課長って、めちゃくちゃ怖いって有名なのにな」
「プライドずたずただよなー。本当に伊須木課長、恐いわ」

 失礼ね、と伊須木は溜め息を吐き出す。

 あれは、氷室が伊須木たちシステムエンジニア班の事務処理が手一杯だということも考えずに、次から次へと面倒事を押し付けてくるから「少しは自分達で処理したらどうなの」と進言しただけだ。

 仕事は難なくこなせる伊須木はともかく、現在伊須木の話で盛り上がっている部下達の仕事がこれ以上増えるのは、効率的に悪いと思ったから言ってやっただけだというのに、今の言い方では、伊須木が一方的に氷室を言い負かしたような悪意を感じてしまう。

 ……まぁ、言い負かしたのは事実なわけだし、自分の言い方がキツイのは自覚があるが。


「ほんとにさ、女としての魅力ってのが欠片も無いよなー。可愛げが無いっつーか」
「四十過ぎた女に可愛げ求めんのかよ」

 とは言え、ここまで言われる筋合いは無いと思うわ。
 ケラケラと笑いあう声に、再度吐き出した溜め息は、先程より幾分も重い。

 コーヒーは諦めて、仕事に戻ろうか。
 組んでいた手を下ろした伊須木は、高い位置で纏めた黒髪の乱れを片手で軽く直してから、歩き出す。

 伊須木が纏めるシステムエンジニア班には、十数人の部下が居る。彼らは、その中で伊須木の補佐をする数人のサブリーダーだった。
 すぐ近くで自分の補佐をしている彼らに、そんな風に噂されていることなんて、別にどうでもいい。
 私は、仕事をしに会社に来ているだけなのだから。誰にどう思われていても、構わない。





「そうかなぁ」

 不意に聞こえた柔らかな声に、足を止めた。

「俺は、伊須木課長、美人だし、はっきりしてるし、好きなんだけどなぁ」

 ふわふわと、どこか浮かれたような声色の若い声は、聞きなれている。
 いつも緊張感の無い声の『彼』が発した言葉が妙に、頭の中で反復された。


 ─ふわふわふわふわ。緊張感の無い緩い声。
 へらへらへらへら。いつも笑っていて、締まりの無い顔。
 まるで飼い犬のように、伊須木の後を追ってくる、部下。
 何にも悩み事なんて無さそうな、能天気な子。

 それが、伊須木の、諏訪爽太(すわ そうた)への、印象だった。─










「何が可愛げが無いよ!! どうせ私はもう中年のおばさんよ!! 可愛げなんてあるもんか!!」

 グラスをカウンターテーブルの上に音を立てて降ろせば、中に注がれていたロックのウィスキーが反動で飛び出した。
 僅かにテーブルの上を濡らして、ブラウンの液体が床に滴っていく。
 それを面倒そうに見下ろしていれば、カウンターの向こうのマスターは困ったように苦笑した。

「今日は……一段と荒れてるんだな、香」

 香、と呼ばれ、伊須木はそっと視線を上げる。
 目が合うとフッと微笑むマスター・魚塚は、伊須木の大学時代からの友人だった。今は、ショットバーを経営している。


 彼の作るカクテルはアルコールなのにも関わらず、どこか優しい。
 日々の疲れは、彼の差し出す酒で癒していると言っても過言ではなかった。
 気心の知れた友人である魚塚に、グラスを片手にぶつぶつと文句を言うのが、勤め始めてからの伊須木のストレス発散法になっている。


「『香』なんて名前で呼ぶ男性、魚塚君だけよ。皆、苗字で呼ぶ」
「そうなんだ? でも、香はまだ若いと思うんだけどね」
「私より綺麗な顔した人に言われてもね」

 近くにあったナプキンで零れたウィスキーを拭いながら言えば、魚塚は曖昧に笑う。
 昔から色白で美形だった魚塚は、女の伊須木よりも断然魅力的な色気を発している。
 そんな彼に容姿を褒められても、手放しでは喜べやしない。


「どうでもいいのよ、もう。どうせ私は結婚なんかできやしないもの」
「そうかな」
「だって相手がいない」
「探さないの?」
「探したことはあるわよ。でも、どの男性よりも、私の方がしっかりしてるんだもの。頼りにならない人に嫁ぐなんて自殺行為じゃない。それよりだったら、私は仕事をして、自分のために生きていたい」

 グラスを煽ってしまえば、中にあったウィスキーが空になってしまう。空のグラスを揺らして魚塚を見れば、彼は苦笑して首を横に振った。

「飲みすぎだよ、香。もう止めた方がいい」
「いいのよ、明日休みだから」
「そういう問題じゃない。心配してるんだから、素直に話を聞いて」
「……」

 心から伊須木を心配している、といった表情になった魚塚を見つめて、伊須木は口を閉ざす。
 伊須木の手からひょいとグラスを取り上げた魚塚は、変わりにミネラルウォーターの瓶を手にして、新しいグラスにトクトクと注いでいる。それを伊須木の前へと差し出した彼の目は、酷く優しかった。

 こうやって、何人も誑かしてきたのかしら。

 妙に冷静に考えながらグラスを受け取れば、魚塚はホッとしたように微笑んだ。

 昔から変わらず優しい彼に、伊須木同様に愚痴を吐きに来る客は大勢居る。
 親身になって話を聞いてくれる彼に、恋愛感情まで抱いてしまう客が大勢居ることも知っている。

 彼の優しさが、万人に対して平等なのは、知っている。
 それでも伊須木は、魚塚のそんな優しい笑顔が好きだった。それは大学で出会ってから、もう何年間もだ。




「魚塚君、結婚しようか」
「は?」

 口を突いて出た言葉に、伊須木本人が目を丸めた。きょとんとして魚塚を見上げれば、彼も伊須木と同じ様に、目を真ん丸にしていた。

「……う、魚塚君、料理も出来るし」

 誤魔化す様に、慌てて付け足した。

「力もあるし、意外と頼り甲斐もあるし、優しいし、それに、」

 あぁ、何を言ってるんだ。
 困惑した頭のままポンポンと飛び出してくる言葉は、告白そのものだ。

 徐々に顔が熱くなっていく。もしかしたら、自分は今、真っ赤に茹っているかもしれない。

 ミネラルウォーターの入ったグラスへと視線を落とした伊須木は、ハッと一度息を吐き出して、それから意を決したように、再度口を開いた。
 少しだけ、声にまで熱が篭ってしまうのを、誤魔化すことは出来そうになかった。


「だから、魚塚君と結婚できたら、いいなぁって思っただけ」

 紛れもない本心だった。出会ってから二十年。
 時折脳裏に浮かんだのは、この優しい友人との、幸せな結婚生活。
 もし自分が結婚するとしたら、と思い浮かべれば、いつも隣に居たのは魚塚だった。
 それが、自分の、誤魔化すことの出来ない感情だった。



「ごめん」

 だからこそ、聞こえた彼の低い声に、涙が出そうになってしまった。


「好きな人がいる」

 そんな事は知っていた。魚塚が、『誰か』に実ることは無い感情を抱いていることなんて、とっくに知っていたのだ。

 誰からも好かれ、誰にでも好意を振り撒く彼でも、伊須木の知る限り、恋人がいたことは一度も無い。
 それでも時折、フッと、何かに想いを馳せる様に愛しげに表情を緩めていたことも、全て知っている。
 彼のことが好きだったから、そんな事には、気付いていた。


「ごめん、香」

 魚塚は、伊須木が本気で彼に告白していた事に気付いたのだろう。
 酷く申し訳無さそうに、それでもはっきりと『No.』を伝えてくる。
 優しくて、それでいて真摯な彼らしい、ストレートな言い方だった。

 俯いていた伊須木は、そっと顔を上げる。どうにか、零れだしそうな涙は堪えて体内に押し込んだ。
 目が合った魚塚は、心配そうにこちらを見つめていた。


「何言ってるの、魚塚君。冗談に決まってるじゃない」

 そう言ってくすりと苦笑してやれば、魚塚は一度目を丸めてから、そっと眉尻を下げて微笑んだ。
 伊須木の強がりなど、敏い彼にはすぐに感づかれているだろう。
 それでも、彼はその強がりに騙されてくれるらしい。
 本当に優しい人だと、改めて好きになってしまいそうだった。


 だが、これでもう、伊須木の長年の片想いは決着してしまった。まだ、少しだけ夢を見ていたかった気もするが、もうタイムオーバー。

 再度、目の奥がグッと熱くなった。まずい、と伊須木は慌ててグラスから手を離して俯いた。


「ちょっとお手洗いに…」

 急いで席を立った瞬間、グランと目の前が歪んでいった。

 足元がふっと無くなってしまうような、浮遊感が体を覆う。

 背後で、魚塚が焦った様な声を発する。こんな緊迫した彼の声は初めて聞いた。

 店内に控えめに流れていたジャズの音が耳に届かなくなる。目の前は真っ暗で、くらくらと頭が揺れていた。

 眩暈のような感覚が続いた後、伊須木の意識はふっと飛んでいった。



2012/10/7
written by 鈴城はるま


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