臭い。
目を覚ましたとたんに、そう思った。
何の匂いだろうと、まだ覚醒していない頭でぼんやりと思う。
重い手を持ち上げて、目を擦る。触れたのは、少しゴワゴワとしたシーツと毛布の感触だった。
ゆっくりと開いた目が映したのは、近い位置にある、ブラウンの天井だ。
視線を動かそうとして、激しい頭痛に眉を顰める。
ズキンズキンと変則的に襲ってくる頭の痛みは、久しく味わっていなかったものだ。
ムッと湧き上がる胃の違和感も同時に見舞うと、ようやくその原因に行き着いた。
どうやら、二日酔いというものらしい。
痛む頭を片手で押さえたまま、視線を左右に揺らした。
見えるのは、ブラウンの天井。グレーのカーテンに覆われたウィンドウ。木製のカラーボックス。その中に乱雑に並べられた雑誌やCDとDVD。ちょこんと置かれたノートパソコン。
広くない室内に置かれた簡易ベッドの上に、自分は寝ているらしい。そっと体を起こしてから、そう気付いた。
室内を改めて見渡しても、見覚えは無い。ベッドの下に散らかったままの衣服や雑誌を見る限り、どうやら男性の部屋のようだった。
しかし、自分をわざわざ部屋に連れて来て眠らせてくれるような男性は、二人しか知らない。
一人は、魚塚。もう一人は、魚塚と同じく大学からの友人である神だ。
だが、この部屋は、魚塚とも、神とも違う。
散らかった室内と、どこか若々しいチョイスの雑誌やCDを眺めて、首を傾げる。
ふと、視線を落としてギョッとした。
魚塚のバーに居たときは、グレーのパンツスーツだったはずだ。
それなのに今の自分は、サイズが大きすぎるぶかぶかの白い長袖のTシャツ一枚になっている。慌てて身体に掛かっている布団を捲れば、下半身は下着しか見につけていない。
サッと背中が冷えた。
見知らぬ部屋で、衣服を脱がされて。どう考えても事件性しか感じないではないか。
咄嗟にベッドから足を降ろした途端、ガランガランという音が耳に飛び込んできた。
びくりと肩を揺らして身を固めていれば、廊下の向こうから、何やら声が聞こえてくる。
耳を澄ませば、低い、男性の声だ。
また冷えた背筋に、オロオロと立ち上がる。
Tシャツの裾をグッと手で押さえて下半身を出来るだけ隠して、そろそろと歩き出す。
廊下の向こうは、リビングのようだ。足音を消してそちらへと向かう間も、男性の声は止まない。
リビングへと辿り着く。
そこにはソファと小さなテレビしか無かった。家主は、リビングよりも先程の寝室に居る時間の方が長いのかも知れない。
リビングと並んで、ダイニングキッチンが備えられていた。
寝室と同じ様に、何やら散らかっているそこに、こちらに背を向けた男性が立っていた。
黒い短髪に、後ろ姿でも解るしっかりと鍛えられた、それでいて細身の身体。
それを纏うのは黒いTシャツとジーパンだ。ラフな格好だが、スタイルは良い。
暫しその後ろ姿を眺めていた伊須木だが、ふと我に返って後ずさった。
なんにせよ、何者なのかわからぬ男性の家で、服を奪われているのだ。
早々に逃げ出さなければいけないと思案していた時、キッチンに立つ男性がまた話し出した。
「だからなんでこう……ふわっといかないかなぁ。俺が作りたいのは、分厚いやつなんだよね」
ぶつぶつと言いながら手を動かす男性を見る。どうやら、独り言らしい。
ふと、その声に猛烈な既視感を覚えた。
苛立った口調なのにも関わらず、どこかふわっとした抜けた声。
柔らかなその低い声に、伊須木は後ずさっていた足を止めた。
「……諏訪君……?」
呟くと、キッチンの男性はくるりと勢い良く振り返って、目を丸めた。
それから、目元や口元をくしゃくしゃにして笑ってみせる。
その笑顔に、伊須木は再度後ずさった。
「おはようございます、伊須木課長!」
「おは、よう……」
いつも職場で降ってくるのと変わらない元気すぎる挨拶に、伊須木は思わず挨拶を返してから、眉を寄せた。
「……なんで……?」
何から聞いていけばいいのか解らず、それだけ溢せば、爽太は「ちょっと待って」とまた背を向けてしまう。
ガスコンロに向かって何やらごそごそとした後、火を消す音。
それから再度くるりと振り返った爽太は、やはりいつもと何も変わらぬへらへらとした笑顔だった。
「風呂入ります?」
「え?」
「お湯沸いてるんで、すぐ入れますよ」
言いながらずんずんと近付いてくる彼に後ずさった。
彼は伊須木の横を擦り抜けて、寝室の向かいにある浴室の扉を開く。ひらりとこちらに放ってきたのは、真っ白なバスタオルだ。
「あ、シャンプーとか、俺は石鹸派だから置いてないんですけど、使いますよね。ちょっと待って。確か貰い物のやつがどこかに」
「諏訪君、待って。意味がわからないんだけれど」
またずんずんと伊須木の隣を通り過ぎていく爽太に、慌てて手を伸ばす。
彼の腕を掴めば、足を止めた彼はきょとんとした目で見下ろしてきた。
「意味がわからないって、俺が石鹸派なことがですか?」
「違う」
「え、と、あ、風呂より先に朝ごはん?」
「違う!! なんで私が貴方の家に居るの?」
一向に伊須木の言わんとする意味を汲まない爽太に、思わず声を荒げてしまう。そうすれば、爽太は再度目を丸めて、首を傾げた。
「覚えてないんですか?」
「な、何を……」
「覚えてないんですね」
眉を寄せる伊須木に、爽太はにっこりと微笑む。
その笑みに隠された意味がわからず、伊須木はそろそろと後ずさった。
ふと思い出したのは、自分の格好だ。
思い出すと同時に、サッと身体が冷える。恐る恐る爽太を見上げれば、彼は微笑んだままだった。
「ねぇ……私の……服は……?」
爽太は「え?」と首を傾げてから、またずんずんと歩き出す。
今度はそれに付いていけば、脱衣所に置かれた洗濯機の横に、伊須木のスーツがハンガーに掛けて下げられていた。
「なんで!」
思わず叫べば、隣に立っていた爽太はスーツをヒョイと取ってから、またリビングへと歩いていく。
小走りで追いかけた伊須木は、片手でTシャツの裾を必死に下へと引っ張りながら、もう片方の手を彼へと伸ばした。
「返して」
「アイロン掛けなくても?」
「いらないわ。だから返して」
自分の手に戻ってきたスーツとシャツを見つめ、伊須木はごくりと唾を飲み込んだ。
爽太の視線を真正面から受け止め、意を決して口を開く。
「あなたが脱がせたの?」
「はい」
「どうして!!」
はっきりと、肯定が返って来てしまう。
咄嗟に声を荒げて、首を横に振る。酔っていたとはいえ、本当に何も思い出せないのが恐ろしい。
「諏訪君。私、バーに行ったことは覚えているの。随分酔っていたことも覚えてる。でも、どうして貴方の家に居るのか、どうして貴方に服を脱がされているのかがわからない」
「そうなんですか」
「教えて。……あ、でも待って、なんだか聞きたくない」
いざとなると、耳を塞いでしまいたくなる。
どんな理由であれど、男性の家で、男性に服を脱がせられる(それも部下に)なんて、普通では無いのだから。
どんな失態を犯したのか、どんな過ちを犯したのかを考えると、ゾッとした。
不意に、爽太がくすりと笑うのが聞こえた。
頭を抱えたまま彼を見れば、爽太はくすくすと笑いを吐き出している。
「な、なに……」
どんな恥ずかしい姿を見られたのか解らない伊須木は、そんな爽太の笑い声に、サッと顔を青褪めさせた。
すると、それを見た爽太は楽しそうに目元を緩めた。
「いえ。伊須木課長って、意外と表情豊かなんですね」
その言葉に、今度はカッと顔に熱が上がってくる。
何か反論しようとしたときには、彼は既にキッチンへと去っていた。
伊須木が彼を追っていけば、彼の手元には、どこか歪な形をしたパンケーキの山が出来上がっている。それを見つめ、伊須木はポカンと口を開いた。
「なに……これ……」
「ホットケーキ。……あ、お洒落に言うとパンケーキって言うんですか? 女性って、こういうの好きなんでしょ?」
「……はい?」
「嫌いですか?」
「……嫌いでは、ないけれど」
「そっか、良かった」
にこりと笑った爽太は、山積みにされたパンケーキを何枚か皿に移してから、きょろきょろと視線を泳がす。
「蜂蜜ってどこに置いたかな」
乱雑に調味料が並べられた台の上をごそごそと荒らす彼に、伊須木は呆然としたまま立ち尽くす。
視線を下げれば、所々焦げ目がついた、歪なパンケーキ。視線を上げれば、どんどんキッチンを汚していく部下の姿。
意味が、わからない。
鼻腔を擽ったパンケーキの甘い匂いに、爽太の腹がグウと鳴ったのが耳に届いてきた。