「ねぇ」
「はい? あ、やっぱり美味しくないですか、ホットケーキ。初めて焼いたから、上手く出来なくて」
「違う。これは美味しい」
「そうですか、良かった」
そうじゃない。内心で突っ込んでから、溜め息を吐いた。
リビングにあるソファに向かい合わせに座った彼は、歪な形のパンケーキを手掴みで口に運ぶ。
フォークは一本しか無いから、と伊須木に渡してきた彼は、特に気にした様子も無いまま、もぐもぐと原始的にパンケーキを咀嚼している。
伊須木は、彼が蜂蜜を探している間に、スーツへと着替えた。
何故か、腕を通したときにゴワッとした硬さを覚える。
それが、彼が洗濯用洗剤でスーツを洗ったからだと後から聞いて納得した。
少しずつパンケーキを摘む伊須木とは対照的に、爽太は次々とパンケーキの山を崩していった。
手を止めてそれを眺めていれば、ふと顔を上げた彼と目が合う。
「……食欲無いんですか?」
「え」
「あんまり食べてないから。それともまだ気持ち悪いんですか?」
首を横に振ってから、ふと目を細める。
「『まだ、気持ち悪い』って……、」
「本当に覚えてないんですね」
爽太は、指についた蜂蜜をぺろりと舌先で舐めてから、視線を上げて伊須木を見る。いつもの笑みは無かった。
「俺、雁夜に誘われて、バーに行ったんですよ」
雁夜(かるや)という名前に、眉を寄せた。
雁夜は爽太と同じく、伊須木の補佐をするサブリーダーの一人だ。
彼はどこか伊須木に似ていて、仕事は何でも出来るが、人付き合いは壊滅的に悪かった。
だが、普段から無口な雁夜も、歳が近い爽太とは仲が良かったようだ。
そういえば、雁夜は魚塚のバーの常連だった。と不意に思い出す。
「店に入った瞬間、目の前で伊須木課長がぶっ倒れて」
ぶっ倒れた? と頭の中で反復した。
「マスターさんも慌てちゃってて」
ああ、そうか、酔いつぶれて倒れたのかと、冷静に思い出す。
魚塚には心配を掛けたのだろう。
「でも寝てるだけだったみたいだから。咄嗟に、『課長の家を知ってるから送っていく』って言っちゃったんですけど、知ってるわけないから、うちに連れてきたんですよ」
「……どうして」
「あの店のマスターさんと知り合いなんでしょ? マスターさんまで青褪めちゃってて、見てらんないから、安心させようと思って咄嗟に」
こめかみを指で押さえた。
告白して、酔いつぶれて倒れて、魚塚を酷く心配させて、なんて最悪なんだと自己嫌悪が襲ってきている。
「で、家に連れてきたら吐いたんで、スーツ洗いました」
「……ごめんなさい。そしてありがとう。お礼は今度しっかりするわ」
「いらないですよ、お礼なんて」
そういうわけにもいかない、と顔を上げれば、爽太の真っ黒な瞳が見つめていた。
ジッと窺う様な視線に、思わず怪訝に顔を顰める。
なに、と問えば、彼はスッと目を細めた。
「泣いてましたけど」
「誰が」
「伊須木課長が」
「……」
何をいきなり、と視線を逸らした。
すると、彼はぎっと音を鳴らしてソファに背凭れに寄り掛かる。
「マスターさんのこと、好きなんですね」
「……」
「魚塚君、って、あのマスターさんでしょ?」
ぐっと唇を噛み締める。
何故知ってる、などと聞かなくてもわかった。酔った自分が暴露したに違いない。
なんて痴態なんだろうと、目を伏せた。
「告白しないんですか?」
「帰るわ。今度、お昼ご飯でも奢るから、それで」
「だからいらないって、お礼は」
「私の気が済まないの。お昼ご飯が嫌なら何か……」
「じゃあ」
残っていたパンケーキを無理矢理に飲み干して、伊須木は立ち上がる。
皿を持ってキッチンへと向かおうとした時、不意に立ち上がった爽太に手首を掴まれて立ち止まった。
見れば、爽太はキュッと眉を寄せて伊須木を見下ろしていた。
どんな時も頼り無い笑みを浮かべている部下の、見たことが無い真剣な表情に思わず足が竦んでしまう。
どうにか自分を奮起させて、キッと爽太を見返せば、彼はそっと手を離した。
「昼飯なんていらないですよ。それでもお礼がしたいって言うなら、教えて欲しいんです」
「……何を?」
こくりと唾を飲み込んでから、彼はジッとこちらを見つめてくる。その目に射られたように、伊須木は視線を逸らせなかった。
「マスターさんに告白しないんですか。好きなら、告白すればいいじゃないですか」
「……」
どうしてそんな事を蒸し返すのだろう、と、じわりと沸いた怒りを、どうにか押し殺す。
この年頃の子は、他人の恋愛沙汰が好きなものだと思い出して、落ち着くように溜め息を吐き出した。
「お礼がいらないって言うなら、無理は言わないわ。本当にありがとう」
流し台に皿を置いて、近くにあったスポンジで洗う。
まだ濡れたままの食器を置く場所に悩み、視線を揺らしていると、隣に立った彼がひょいと取り上げて、食器棚に入れてしまう。
まだ濡れているのに、と眉を寄せていれば、彼は凝りもせずに伊須木を見つめてくる。
「伊須木課長、美人じゃないですか。どうして告白しないんですか。絶対うまくいくはずですよ」
咄嗟に湧き上がった反論を、どうにか飲み込む。刺さる視線を無視して、寝室へと向かった。
確か、自分の鞄がそこら辺にあったと室内を見渡すと、ベッドの横に使い慣れた黒いビジネスバッグを見つけた。
それを手に取って振り返ると、扉は爽太が塞いでいた。
「それとも、あの人既婚者なんですか?それだったら……」
「いい加減にしてよ」
思わず、低い声が漏れた。
キッと爽太を睨みつければ、彼は怯んだように眉を寄せる。
「何が『上手くいく』よ。何も知らないくせに、勝手なこと言わないで」
「……でも、伊須木課長、綺麗だから」
「振られたのよ!!」
吐き出した声に、爽太が目を丸めて息を飲むのが見えた。彼を睨んで、強く唇を噛み締める。
どうして忘れようとしていた事をわざわざ蒸し返して、神経を逆撫でするのだろう。
それも、知ったような口調で、適当なことを言って。
腹が立つ。
こんなにも無神経な男に介抱された自分の不甲斐無さや情けなさが一気に押し寄せてきて、目頭が熱くなった。
「告白したわよ。昨日、貴方がぶっ倒れる私を見つける直前にね! 見事に振られたわよ。二十年、ずっと好きだった人に、振られたの」
自棄のように吐く。もう何もかも嫌になった。
信頼しなければいけない部下達の、自分への陰口も。
ずっと好きだった相手に伝わらなかった想いも。
部下に散々な痴態を見せたことも。
すべて、投げ出して逃げてしまいたかった。
「どうせ、私には女としての魅力なんか無い。可愛げなんて無い。魚塚君を振り向かせる自信なんて、端から無かった。でも、それでも好きだったのよ……」
ついに零れた涙を、乱暴にスーツの袖で拭った。
拭った先から流れてくる涙を押さえきれず、両手で目を覆う。
「魚塚君しか、私を『女性』として見てくれなかった。もう、彼以外、私にはいないの」
失恋は何度もした。
昔から、他の女の子のように、好きな相手に可愛く見られるようになんて意識できなかったし、女らしいことも出来なかった。
せいぜい『良い友人』止まりのことは何度もあったのだ。
魚塚も、例外なく『友人』だった。
それでも、諦めることは出来なかった。
それ程に好きだった。
「もう、私なんか……」
不意に、身体を引き寄せられた。
びくりと肩を揺らしているうちに乱暴に抱き締められれば、体が強張って身動きが出来なくなってしまう。
爽太の力強い腕が、華奢な伊須木の腰を引き寄せてから、ゆっくりと背を撫でる。
その手の感覚に、ぞくりとした。
「何……」
「好きです、伊須木課長」
頭上から降ってくる言葉に、ごくんと息を飲んだ。
咄嗟に逃げようとすれど、存外に強い爽太の力には敵わず、彼の腕の中で身じろぐのが精一杯だった。