ハイボール4







「離して」
「嫌です」
「中年の女の失恋に同情してるの?!これ以上惨めにさせないでよ……!」
「同情なんかで好きだって言えるわけないだろ! 馬鹿にすんなよ!」

 不意に響いた低い怒鳴り声に、びくんと大きく肩を揺らした。
 それからグッと一層身体を固めれば、爽太は深く息を吐き出す。

 落ち着かせるように、背中に回された手が上下に動くのを、伊須木は緊張したまま受け入れた。
 ゆっくりとした動きは、伊須木を落ち着かせるものなのか、それとも爽太自身を落ち着かせるものなのだろうか。

「……怒鳴ってすみません。けど、むかついた」

 先程よりも幾分か低い調子で聞こえてくる声が、少しずつ柔らかさを取り戻している。
 いつもの、悩みの無さそうな爽太とは対照的なぴりぴりと緊迫した空気を纏う彼に、伊須木自身も緊張していた。
 もう何も解らない。彼が何を考えているのかも、その真意もすべてだ。

「伊須木課長、俺は、伊須木課長が好きです。同情なんかじゃないです。だって、ずっと前から好きだったから」

 言いながら、爽太は解いたままの伊須木の黒髪を撫でる。抱き締められたままの伊須木には、その手を振りほどくことは出来なかった。
 愛撫のように優しいほど軽く、爽太の手が髪から肩、腰を伝って流れていくのが、ぞくぞくする程に擽ったい。

「確かに、可愛げは無いけど。歳も俺より断然上だし、俺より給料高いし」
「…………なんなのよ……喧嘩売ってるの……?」
「違います。本当のことを言ってるだけ」

 くすりと控えめに笑う声も、いつもの快活な彼の笑い方とは違う。それに気付いて、妙に恥ずかしさが増した。

「それでも、好きになったんです。俺はさ、伊須木課長」

 言葉を区切った彼が、伊須木の腰をなぞっていた手を止める。
 それから改めてギュッと強く抱き締めてくる爽太の胸に顔を埋め、伊須木はそっと目を伏せた。

「あんたが一人で頑張ってるのを見てた。いっつも一生懸命なだけなのにさ、ちょっと愛想が無いから、怖いとか言われてるのも全部見てたんだよ。本当は、泣きそうなの堪えてるのとかも、見てたんだ」

 そういえば、男性に抱き締められるのなんて何年ぶりなのだろう。
 こんなにも心地の良いものだっただろうかと、また熱くなった目頭にグッと力を入れながら思う。

「そのうえで、『好きだ』って言ってんだよ。これが同情だと思うの?」

 問う声に、知らない、とだけ返した。
 その声が震えたのを悟られたくは無かったが、強く肩を引き寄せた彼は気付いているのかもしれない。

「いつもこうやって抱き締めたかったのに、あんたはいつも一人で耐え切っちゃうんだもんな。だから、待ってた」

 爽太の力が緩む。
 そっと彼から離れれば、爽太は笑っている。いつものへらりとした、緊張感の無い笑みに、伊須木は目を丸めて彼を見上げた。

 そっと伸ばされた爽太の手が伊須木の頬を撫でてから、湿ったままの目尻に指先を滑らせる。
 擽ったさと心地良さが一気に湧き上がるのを、伊須木は目を伏せて受け入れた。


「あんたが崩れんのを待ってたよ。やっと抱き締められた」
「……あなた、性格良くないわね……」

 まだ少し震えて、掠れたままの声で言ってから目を開いた。視界に映った爽太の笑みに、思わず釣られて笑ってしまう。
 何が楽しいのかわからないが、へらへらと能天気に笑う彼が、どこか愛しく思えて、伊須木は苦笑した。


「……諏訪君」

 呼べば、嬉しそうに目元を緩めて、首を傾げる。

 伊須木はそんな彼ににこりと微笑んでから、未だ伊須木の目元を撫でている彼の手を思い切り叩き落とした。

 呆然とした彼を鋭く睨みつけてから腕を組めば、彼は引きつった笑いへと表情を変えていく。


「これでお礼は済んだかしら? もう帰るわね、本当にありがとう」
「ちょっと、冗談でしょ?」

 するりと彼の隣を擦り抜けて玄関へと真っ直ぐに向かう伊須木に、引きつり笑いのままの爽太が駆け寄ってくる。
 玄関に揃えて置いてあった黒いハイヒールを履く伊須木は、ちらりと彼を一瞥してから大袈裟な溜め息を吐き出した。

「貴方の気持ちは嬉しいけれど、それだけよ」
「いや、どう見ても落ちかけてたでしょ?」
「随分都合の良い解釈なのね」

 ツン、と冷たく言い放ってから、扉へと手を掛ける。一度押してみてから、鍵が掛かっていることに気付く。
 チェーンロックと鍵を外してから、再度押してみれば、開いた先から冷たい外気が流れ込んできた。
 まだ紅い目元は、その冷たさに少しだけ悲鳴を上げる。
 それでも、伊須木は構わずに外へと踏み出した。

 振り返れば、爽太は苦笑したまま腕を組んでいる。
 伊須木が開いた扉に半身を寄り掛からせた彼は、くっと片眉を上げてから、口元を悪戯気に歪めた。

「すごいギャップですよ、伊須木課長。泣いちゃう伊須木課長、めちゃくちゃ可愛かったのになぁ」
「……あなたこそ、まるで二重人格ね。普段は猫を被っているの?」
「へらへらしてた方が、人付き合いも楽なんで」
「……良い性格ね」

 カツンとヒールの音を立てて、伊須木は歩き出す。
 ここがどこなのかは解らないが、これ以上爽太に世話になるのは意地でも阻止したかった。

 酔って、吐いて、泣いて、失恋を暴露して、泣いて、泣いて。
 そんな失態を犯したのに、休みが明けて会社に向かえば、また彼と一緒に仕事をしなくてはいけないのかと考えると、ドッと憂鬱になる。

 カツカツと靴を鳴らして歩き出してから、背中に刺さったままの視線を少しだけ意識する。
 そう言えば、告白されたのは初めてだと改めて思うと、じわりじわりと身体が熱を持った。



 マンションの階段を下りる前に、一度だけ振り返ってみた。
 爽太は、まだ扉に寄り掛かったままこちらを見ていた。目が会うと、にこりと笑う。それは、いつもの気の抜けた笑みだ。

 どうやらそれは、彼の『作り笑い』。
 本当の彼は、あまり笑わないのかもしれない。
 伊須木と向き合った彼は、終始真剣な表情をしていたから。


「……ほんと、能天気な顔……」

 決して、伊須木の好みのタイプではない。
 頼りがいのあるようにの見えない。
 そもそも歳が伊須木よりも下過ぎる。


 それなのに、どうしてだろう。


「伊須木課長、気をつけて」

 柔らかな声で、爽太が言う。その声も、大して好きでは無い。

 けれど、少しだけ………





 大通りに出て、タクシーを拾う。
 自宅の住所を言えば、ゆるゆると動き出して、目的地へと向かい始めた。

 鞄の中の携帯電話を開くと、魚塚から文面からも伝わるような心配しきったメールが送られてきていた。
 彼の優しさに、伊須木はくすりと微笑んだ。

 失恋した痛みは、既に薄れている。ショック療法、というものをふと思い出してから、口元を緩めた。


 今夜、もう一度魚塚の店に行ってみようか。
 告白されたんだと言ってみれば、優しい彼は応援でもするのだろうか。


 そっと目を伏せれば、爽太の作った甘いパンケーキの香りがふっと鼻腔に蘇った気がした。



2012/10/7
written by 鈴城はるま


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