空に満つ


□第七話
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秋斉さんの友人だというその人は、一見とらえ所のない人だった。


背格好は中肉中背、言葉には訛りがなく、かと言って江戸の人とも雰囲気が違う。

体つきは若いような、でも端正な顔立ちは落ち着いているような、年齢の見当も全くつかない。


そして彼からは、何の匂いもしなかった。


人は皆、何かしらの匂いがするものだ。

お香を嗜む人は、お気に入りの香りを纏っている。
書き物の多い人なら、墨の匂いがする。


随分慣れたとは言え、現代では馴染みのなかった匂いには、私は敏感だ。

鬢に付ける油の匂い。
着物をしまう時の樟脳の匂い。


彼からは、そんな生活を感じさせる一切がなく……煙草や汗の匂いすら全く感じなかった。




そもそも、私は秋斉さんから友人の話というものを聞いたことがない。

この人は一体、秋斉さんとどんなお知り合いなのだろう……?





「今、私のことを怪しんでらっしゃるでしょう……?」

何度目かのお酌をする私に、細谷と名乗るその人は口を開いた。


そのものずばりを言い当てられ、私はゆるりと愛想笑いを浮かべてみせる。

「……何をしてらっしゃる方かと、あれこれ想像しておりましたが……降参です。このまま上の空で失礼するより、どうか教えてくださいませんか?」


「なかなか、あなたは頭の回る人のようですね。藍屋さんが気に入るわけだ……。」


斜に構えて私を見たまま、細谷様は少し開いた口の中に投げ込むようにして盃の酒を飲み干す。上下に動く喉元が思いの外美しくて、私は一瞬目を奪われた。

この人は案外、まだ若いのかも知れない。



薬指で唇を拭うと、さっきよりも幾分顔を近付けて細谷様は話し始めた。


「……では、私の故郷の話をしましょうか。」






十津川という村をご存知ですか、と聞かれ、私は黙って横に首を振った。


――そこは山深く、農耕には適さないために古来より免租の特権を持つ集落。そのため時の権力者から半独立した、特殊な勤王の村。


私のじいさんが、恐らく何か後ろ暗いことをして山の中に逃げ込んで、行き倒れて住み着いたのが十津川でした。

その排他的な特殊な村で、私と妹は生まれながらに除け者でした。

この世に生を受けてからまだ一歩も十津川を出たことがないのに、私達兄弟はよそ者と呼ばれ続け……だから私は故郷が嫌いです。


斜面に這いつくばって働いた両親が極貧の中死んだ時、私は山を降りました。私は十五で、十になった妹の手をひいて。


京に来て最初に住み込んだ奉公先の主人は優しかった。私は懸命に働きましたよ。
暗い土蔵の中で、妹が毎日のように辱めを受けていると知るまでは。

飛び出して、真面目に働くだけじゃ食っていけないと分かった頃、私は藍屋さんに拾われたのです。





「……あなたが聞きたいのは、こんな話ですよね?それとも、芝居か何かの話をしましょうか?」


私は固まったままだった。この人から匂いがしない理由が分かったからだ。


恐らく彼は、私の知らない秋斉さんに仕えた人。


いつも侍従の香り立つ秋斉さんよりも、もっと暗い射干玉の道で、全ての気配を消し去らなければ、務まらない役目を果してきたのだろう。


きっと……妹さんと二人、寄り添って生きるために。









※樟脳
楠から作られる結晶。防虫剤として使われた。

※免租
年貢の免除

※射干玉
檜扇の実。黒いもの、夜や黒髪、闇、夢などにかかる枕詞。ぬばたま、むばたま。

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