空に満つ


□第八話
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「遅かったじゃないですか、三条の女に、随分と時間をとられたようですね。……まあお座りになって下さい。」


秋斉は襖を背に片膝を立てて座ると、刀を部屋の隅にそっと滑らせた。


「わてが来たんや、琴子はもう、帰したってくれ。」


細谷と琴子は壁を背に座っている。壁には嵌め殺しの月見窓と障子。
ここは二階。出入口は秋斉の後方唯一つ。

つまり細谷は、ここから出ることは考えていない。



「そうはいきません。人を呼ばれたら、困りますからね。……さあ、こちらの次期太夫は震えてらっしゃる。藍屋さん、手酌でお願いします。」

細谷が右手で酒の載った膳を示した。左手は琴子を掴んでいる。
自由になるのは右手一本だ。


――細谷の狙いは俺か、それとも琴子か。


秋斉は言われた通り、手酌で酒を注ぎながら細谷をじっと見据える。



「私だってこんなことはしたくない。しかし、こうでもしないと藍屋さんが会って下さらないのだから、仕方がない。」


細谷の右手が、そっと懐に入った。
その手はもう、匕首を掴んだか。


「私は、腕で藍屋さんに敵うとは思っていません。貴方が席を立つとおっしゃるなら、私は腹を裂いて、臓腑をこの美しい太夫にぶちまける。
……一生、悪夢に苦しまれるでしょうな。」


「そないなことしてみぃ、はらわたで首締めたる……。」


琴子の顔は蒼白、口元に片手を当てて脅えている。
怖がらせるのは本位でないが、下手に動かれるよりじっと震えていてくれたほうがいい。

今はとにかく、細谷の注意を自分に向けさせることだ。



細谷はゆっくり笑い出す。

「それでこそ、藍屋さんだ……。
私はそんな貴方に、全てをかけてお仕えしたんです。それが、黙って京を去って、帰ってらしたと思えば、すっかり嫌って話も聞いて下さらない。随分じゃあ、ありませんか……?」


細谷と睨み合う。
細谷は俺だけを見ている。


「なんの話をせぇゆうんや。……けいか。まるで自分の女やな。まあ、分からんでもない。けいは……ええ女やったからな。」


秋斉は細谷を見る目を細めて、舌先で少し上唇を舐めてみせた。



細谷の顔が、怒りでみるみる赤くなっていく。

「そうやって憎まれ役を演じて、いつまでお逃げになるんです?私は…ちゃんと話をしたいだけだ……。」





その時、ずっと目を配っていた細谷の右手が動いた。

手の中の柄。そこから続く鈍い光。



次の瞬間、秋斉はその刃を目掛け、膝を立てていた方の足で勢いよく畳を蹴った。



こっちだ。
その刃は俺に向けろ。

まだだ。まだ届かない。



百倍にも千倍にも感じた一瞬ののち、秋斉は細谷に飛び付いて匕首を持つ右手を掴んだ。

体を細谷と琴子の間に入れ、琴子を後ろに押しやる。

細谷の自由になった左手が、次の一撃に備えて構えをとった。
秋斉は拳で打つと見せかけ、その手を躱すと肘を思い切り細谷の顔に打ち込んだ。




ばきっ、という手応えがあった。

細谷と、その手を掴んだままの秋斉も重なるように倒れ込む。



大きな音がした。
全ての音が、まるで遅れて一度にやってきたように感じた。

声を出したかどうかも覚えていない。
ただ秋斉も細谷も、大きく喘いで暫く肩を揺らしていた。










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