「遅かったじゃないですか、三条の女に、随分と時間をとられたようですね。……まあお座りになって下さい。」
秋斉は襖を背に片膝を立てて座ると、刀を部屋の隅にそっと滑らせた。
「わてが来たんや、琴子はもう、帰したってくれ。」
細谷と琴子は壁を背に座っている。壁には嵌め殺しの月見窓と障子。
ここは二階。出入口は秋斉の後方唯一つ。
つまり細谷は、ここから出ることは考えていない。
「そうはいきません。人を呼ばれたら、困りますからね。……さあ、こちらの次期太夫は震えてらっしゃる。藍屋さん、手酌でお願いします。」
細谷が右手で酒の載った膳を示した。左手は琴子を掴んでいる。
自由になるのは右手一本だ。
――細谷の狙いは俺か、それとも琴子か。
秋斉は言われた通り、手酌で酒を注ぎながら細谷をじっと見据える。
「私だってこんなことはしたくない。しかし、こうでもしないと藍屋さんが会って下さらないのだから、仕方がない。」
細谷の右手が、そっと懐に入った。
その手はもう、匕首を掴んだか。
「私は、腕で藍屋さんに敵うとは思っていません。貴方が席を立つとおっしゃるなら、私は腹を裂いて、臓腑をこの美しい太夫にぶちまける。
……一生、悪夢に苦しまれるでしょうな。」
「そないなことしてみぃ、はらわたで首締めたる……。」
琴子の顔は蒼白、口元に片手を当てて脅えている。
怖がらせるのは本位でないが、下手に動かれるよりじっと震えていてくれたほうがいい。
今はとにかく、細谷の注意を自分に向けさせることだ。
細谷はゆっくり笑い出す。
「それでこそ、藍屋さんだ……。
私はそんな貴方に、全てをかけてお仕えしたんです。それが、黙って京を去って、帰ってらしたと思えば、すっかり嫌って話も聞いて下さらない。随分じゃあ、ありませんか……?」
細谷と睨み合う。
細谷は俺だけを見ている。
「なんの話をせぇゆうんや。……けいか。まるで自分の女やな。まあ、分からんでもない。けいは……ええ女やったからな。」
秋斉は細谷を見る目を細めて、舌先で少し上唇を舐めてみせた。
細谷の顔が、怒りでみるみる赤くなっていく。
「そうやって憎まれ役を演じて、いつまでお逃げになるんです?私は…ちゃんと話をしたいだけだ……。」
その時、ずっと目を配っていた細谷の右手が動いた。
手の中の柄。そこから続く鈍い光。
次の瞬間、秋斉はその刃を目掛け、膝を立てていた方の足で勢いよく畳を蹴った。
こっちだ。
その刃は俺に向けろ。
まだだ。まだ届かない。
百倍にも千倍にも感じた一瞬ののち、秋斉は細谷に飛び付いて匕首を持つ右手を掴んだ。
体を細谷と琴子の間に入れ、琴子を後ろに押しやる。
細谷の自由になった左手が、次の一撃に備えて構えをとった。
秋斉は拳で打つと見せかけ、その手を躱すと肘を思い切り細谷の顔に打ち込んだ。
ばきっ、という手応えがあった。
細谷と、その手を掴んだままの秋斉も重なるように倒れ込む。
大きな音がした。
全ての音が、まるで遅れて一度にやってきたように感じた。
声を出したかどうかも覚えていない。
ただ秋斉も細谷も、大きく喘いで暫く肩を揺らしていた。
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