『忘八』


□一、雛
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――忘八(ぼうはち)

遊女屋の当主。
仁・義・礼・智・信・孝・悌・忠 の8つの「徳」を忘れたものとされていた。
出典: Wikipedia――




「おりんはん、うちで寝起きしてはる以上、おりんはんも玄人だす。玄人がいつまでもお人よしなんは、感心しまへんな。」

叱られて、濡れ雑巾を持ったおりんはうなだれている。




秋斉は、三味線の稽古の時間になっても廊下の掃除をしているおりんを見つけ、どうしたのかと尋ねたのだった。


――お袖はんが具合悪いいわはるよって、お掃除代わったんどす。


……またか。

おりんは要領の悪い娘だ。
馬鹿正直に、言われたことをそのまま鵜呑みにしてしまう。

それに輪をかけて大人しくて、いつも一歩引いてしまう性分だから、よく他の娘の分の仕事までやらされている。


「あんなぁ、おりんはんにとってはお稽古も大事な仕事だす。自分のことも出来ひんで、人に手ぇ貸すんはただのお人よしや。…玄人のお人よしなんて目ぇも当てられまへんな。」

ついつい強くなる口調に益々縮こまるおりんを見ていると、まるで自分もこの娘を虐めているようでばつが悪い。


「…おりんはんの名ぁは竜胆(りんどう)やろ。竜の胆(きも)持ってはるんや。嫌なことは嫌やとちゃんと言わなあきまへん。」

秋斉は高い上背を折り曲げるようにして、おりんの顔を覗きこんだ。

するとおりんは下を向いたまま長い睫毛をぱちぱちとさせて、ぱあっと頬を赤らめた。


「…もうよろし。はよ片付けてお稽古しはり。」

おりんはこくこくと頷くと、二三歩後ずさりし、そのまま逃げるように走って行った。




――もったいない。


おりんは十三でここへきた。
大工だか建具師だかの父親は、酒のみの博打打ち。この界隈ではありふれた話。

ここへ来てからは二年余り。それにしては芸の覚えが早く、その上小さな口元が愛らしい、人並み以上の器量を持っている。


――あのおっとり加減はなんとかならんのか。

島原で生きていくには、人に付け込まれる隙を見せないこと、秋斉は常々そう女たちに言っている。

それは、座敷で旦那衆に見せる、艶っぽい隙とはもちろん別物。



置屋で十になる前から禿(かむろ)として育てられても、器量が悪く座敷に上がれない者もいる。

かと思えば、酌とお座敷遊びばかりで芸が一向に上達しない、根っからの不器用者もいる。

ここは島原、のし上がりたい、いい旦那を捕まえたい女達の、嫉み妬みの渦巻く所。

だからこそ、ここで生きるに必要なのは、自分で自分を守る力。

おりんはせっかく恵まれた才を持っているのに、本人にあまりその気がないのが、秋斉は口惜しい。




少し考えてから、秋斉は遣手のお柳を呼んだ。

秋斉がこの藍屋の主人になる前から、お柳はここの遣手を務めている。

美人のくせに無表情なお柳は取っ付きにくいが、それでも頼りなる人物であることは間違いない。




「お呼びどすか?旦那はん。」

「おりんの座敷での評判はどうや?」

「…悪ぅおまへん。鳴り物は上手いよって。ただ、お愛想は不得手どすな。」

「まずは太鼓新造でいけるやろか?」

「まあ、その線がよろしゅうおますな。……旦那はんはおりんがお気に入りどすか。」

お柳の口角が右だけ少し上がる。

「わてがここへ来て最初に買うた娘やよって、ちゃんと育てたいだけや。」



ふいにお柳の右手の指先が、秋斉の顎に触れた。

「旦那はんも、よう育ってはるようどすな。」


「……。」


急なことで何も言えない秋斉を一瞥して、お柳はくるりと踵を返してすたすたと歩いて行った。

後ろ姿を見送って、秋斉はちっ、と舌打ちする。


――お柳は時々、俺を子供扱いする。





※遣手(やりて)
遊女屋全体の遊女を管理・教育し、客や当主、遊女との間の仲介などをする役目




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