『忘八』


□二、繋がる命
1ページ/2ページ

水無月の午後、肌に張り付く着物、止まらぬ蝉しぐれ。

打ち水をした往来からは、行き交う人の声。

木陰で午睡する猫。

廊下を近づいてくる足音、シュッシュッという衣擦れの音。


いつもと同じ午後。




「旦那はん、おりんの父親が来てはります。……また、たかりに来たようや。」

お柳の言葉に、秋斉の眉がぴくりと動いた。
最近おりんの父親が訪ねて来ていること、おりんの借金が増えていることは、すでにお柳から報告を受けていた。

秋斉は番頭に、おりんへのこれ以上の貸し付けの禁止を言い渡してある。


「おりんは今…?」

「出稽古に行っとります。」


裏口へ回ると、酒焼けした顔の、みすぼらしい身なりの男と番頭が押し問答している。

秋斉が近付くと、気配に気付いた二人がこちらを見て動きを止めた。




「……ご当主はんでっか?」

秋斉はそれには答えず、番頭に下がるよう命じた。

「おりんは稽古に出とるよって、ご用はこの藍屋が承りまひょ。」

若い秋斉を甘くみたのか、馴れ馴れしい態度でおりんの父親は金を借りたいと言い出した。

「金はおりんの給金から返すよって、なんとか助けてもらえんやろか。」

酒と、さらにすえた臭いが秋斉の鼻孔を刺激する。


「おりんにはこれ以上金は貸せまへんな。あんさんは娘に、この島原で三回死ぬまで働かせるおつもりか?」

男はへらへらと笑っている。

「…だったらさっさと客を取らせたらどうや、旦那はん。上品ぶって稽古なんてさせてはるから、稼げんのでっしゃろ?」

この男は畜生だ。
見ればまだ年は四十に届くまい。


「藍屋には辻君は置いとりまへん。わてとこのおなごらに手出しも口出しも無用どす。はよ帰りよし。」

秋斉は腕組みしたまま、男を睨みつけた。


「…おりんは、えぇ女になったやろ?……あんさん、自分で手ぇ付けて売り惜しみしてはるんか?」


そう言いながら男は秋斉の袂に手を伸ばしてきた。

前歯の抜けた口から酒臭い息を秋斉に吐きかけ、男は続ける。

「このご面相はまるで男芸者やな。こないな顔で、おなごらぁ床で手なずけよるんか……随分とええ商売して…うぇっ…」


秋斉の拳をみぞおちに受けて、男は涎を垂らして崩れ落ちた。


「疾くと退ね!」

秋斉は懐から財布を取り出し、男に投げつけた。

「……随分とご立派やなぁ、忘八はん、施しどすか……。」

男は這いつくばって散らばった銭を拾った。

「けんど…わてのような父親がおるから…島原は成り立っとる……そうでっしゃろ?忘八はんよ。」

男は金を拾い終わると、のろのろと立ち上がった。


「……おりんと寝たら、その分の金、きっちり払うてもらいますわ。」

「下司め……。」

へへっと笑って、ようやく男は帰って行った。



いつの間にか、お柳が塩の壷を持って立っている。



「…お柳、着替えだ。」



袂から、自分がすえていくような気がする。

その場で諸肌を脱ぎ、裏庭を歩きながら帯を解いて脱ぎ捨てた。

ええい、と井戸で水をかぶり、ずぶ濡れのまま部屋へ向かう秋斉の後を、お柳が着物を拾いながら ついて来る。



お柳は何も言わず、秋斉の体を拭いて新しい着物を着せてくれた。




「もう下がってええ。」

お柳に背を向けたまま、ぶっきらぼうに言い放つ。

一人に、なりたかった。


襖にかけた手を下げて、お柳がつぶやいた。


「旦那はん、わてにはここの水がおうとります。」


「……さよか」


「おなごらがこの島原へ来て、それで繋がった命かて……いくつもあるはずやろ。」


「……せやからここに、残らはったんか……?」


「さあ…わてにはもう国もあらしまへんし、人を育てるゆうんは、存外面白みのあることやさかい。」


「……取り乱してもうて、すまんかった。」


少し照れ臭くて、畳を見ながらしか言えない。


「いんや、あれぐらいの意気があったほうが頼もしゅうおます。」


驚いて顔を上げると、お柳と目が合った。

何も言わず、一呼吸置いてお柳は部屋から出て行った。







※辻君(つじきみ)
江戸でいう夜鷹のこと。
街頭に立って色香を売った。




→次ページは作者のつぶやき

次へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ