『忘八』


□三、一番暗い闇
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その日の遅く秋斉の部屋に、襖の向こうからためらいがちな声が聞こえた。


「あの…旦那はん…。」

「なんや?」

「今日は…ほんに…すんまへん。」


襖を開けると、おりんが廊下で頭を下げている。


「なんのことや?」

おりんはそれには答えず、ただずっと廊下に額を擦りつけている。

「そないなとこで、下ばかり向いても、ええもんは落ちてへんよ。」

秋斉がそう言っておりんの頬に手を添えて顔を上を向かせると、瞳にはもう溢れんばかりに涙がたまっていた。

「こないな夜更けに部屋の前で泣かれては、まるでわてがいけずみたいやな。」

ぶんぶんとおりんが首を振った。

「旦那はん…今日…うち…見とったんどす。」




「……お入り。」

秋斉は小さな溜息をついて、おりんを部屋に招き入れた。





「いつから見てはったんや?」

おりんの目元を親指で拭ってやりながら尋ねた。

「あ、秋斉はんが…出て来はった時から……。」

とすると一部始終を見られてしまったわけか。

「秋斉はんの金子(きんす)を…ほんにすんまへん。うちが、返しますよって、堪忍しとくれやす。」

おりんはまた頭を下げる。

秋斉はおりんの頭をぽんぽんと軽く触った。

「それやったら、わても同じやな。……殴ってもうたからの。」

子供にとっては、辛い光景だったはずだ。

しかし、見られてしまったならいっそのことはっきり言っておいたほうがいい。


「今、この藍屋がおりんはんの親代わりだす。藍屋のおなごらを侮辱されては黙ってられへん。金のことかて同じや。よう返されへん借金はさせとうない。」


おりんはただ黙って聞いている。

「分かったらもう、部屋に戻ったほうがええ。」


「旦那はん……」

小さな小さな声でおりんが呟く。

「藍屋では、布団があって、毎日膳かて出て、うちに比べたら夢みたいなとこどす。なんも辛いことあらしまへん。」

そこからは涙声になった。

「でも弟らは、食えずに殴られて、冬は藁布団で震えとる……」


「弟が、おるんやな?」

秋斉は、震えるおりんの肩をそっと撫でた。






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