秋斉はあの晩、自分の恋に気付いた。
着物越しに胸を合わせただけで、小さな部屋はまるで違う世界に染まった。
ゆっくりと体を離して、最後におりんの熱い額にそっと口づければ、おりんは一瞬息を止め、目を閉じて受け止めた。
そして甘い吐息を漏らしながら、震える指先で秋斉の手をそっと握った。
通じ合えた、と思った。
しかしこのところ、おりんの様子がどうもおかしい。
あの夜以来、秋斉は前より一層おりんを良く見ているから、おりんが沈んだ顔をしていることにすぐに気が付いた。
しかし話を聞こうとすると、どうも避けられて上手くいかない。
嫌われたか……?
まったく、こんなに毎日女どもに囲まれて暮らしているのに、
まだまだ女の気持ちは分からない。
「まあまあ、懐かしいお方からの呼び出しやなぁ。」
お柳が珍しく大きい声を上げている。
「懐かしい?」
訝る秋斉が逢状を覗き込むと、山喜屋徳右衛門、とある。
「五、六年前まではよう来てはった上客や。大きい油問屋の旦那はんどす。体悪うしたと聞いとりましたが…ようならはったんやろか。」
「……お柳、このお方はもしや…?」
「へぇ、あの“方違えの徳右衛門”はんどす。」
秋斉が藍屋に来たばかりの頃、聞いたことがある。
島原で一番上手く浮気をしていた男の話だ。
二人の遊女に入れあげていた男は床入り後、
「わては今日はこの方角は塞がっとったんや……あんさんに逢いたい一心で来てもうたが、方違えせんといかんのだす。死んだばあさまの言い付けや。」
と、世にも白々しい言い訳をして床を抜け出し、もう一人の女に会いに行っていたと言う。
「おなごの扱いの上手いお方で……二人のおなごは争うどころか、同じお方に惚れたもん同士、山喜屋はんを困らせたない、と最後はうまいこと譲りおうてたいう話どす。」
「……あやかりたいものやなぁ。」
「何か、言わはりました?」
「いや…」
その山喜屋とは、思わぬ形で対面することとなる。
時刻はまだ七つ半、騒がしい気配に秋斉が部屋をでると、由良、お袖の二人が頭も着物もびしょ濡れで座敷から泣いて帰ってきていた。
「なんやこの臭いは、酒か?」
「山喜屋はんが…!わ、わてらに…!ううぅ…」
「こないな辱めを……あのじい様が!」
「おりんはんが、あのじい様と!」
二人は泣き叫んでいて、話が良く分からない。
ふと見ると、おりんだけが夢うつつといった様子で目を見開いている。
「おりん、おりん!何があったんや!言うてみよし!」
秋斉はおりんの肩を揺すった。
それでも相変わらずおりんは放心している。
「……神さんや。」
「はぁ!?」
「今日、お座敷に、神さんが、きはったんや…」
「……お柳、ここは頼む。わては揚屋まで行ってくるさかいに。」
韋駄天のごとく揚屋に駆け付けた秋斉だったが、山喜屋はもう帰った後だった。
代わりに揚屋の主人から事の子細を聞いて、秋斉はいたたまれない気分になった。
このところ、おりんは座敷で二人の姐さんから嫌がらせを受けていたという。
おりんの着物の裾を踏んで客の前で転ばせたり、おりんが舞を踊れないようにへんな鳴り物をしたり。
二人は客前でおりんを笑い者にしていたというのだ。
「……そらえげつないいけずどした。藍屋はんも気付いてはったと思いますが……。」
主人の非難めいた口調に、秋斉は俯くしかなかった。
おりんの様子がおかしかったのはこのせいに違いない。
「今日の山喜屋はんは、そんないけずを見て、ご立腹なさはったんでっしゃろ。二人の姐さんたちに徳利の酒をたんと浴びせて、その後は大騒ぎですわ。」
秋斉は神妙な面持ちで揚屋の主人に謝罪した。
「大変ご迷惑をおかけして……座敷も汚してもうて、ほんに申し訳ありまへん。」
「それやったら、気にせんといておくれやす。もう山喜屋はんから、畳替え代ゆうて、たんとはずんでもらいましたさかい。
……それより、藍屋はんに手紙を預こうとります。」
―――手紙には、明日、秋斉に一人でこの揚屋に来い、と書いてあった。
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