『忘八』


□六、情炎
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文月の夜風は心地好い。

秋斉は縁側に出て、虫の音を聞いて涼んでいた。

今夜の月はなかなかいい。

秋斉の心がどんなに曇っても、月はこんなに冴えている。





今日はおりんに、水揚げの相手を世話して欲しいと頼まれた。

禿の時代を経ていないおりんは、太夫にはなれない。
秋斉のそばで藍屋で暮らしていくには、それは避けては通れないことだ。

ましてやおりんは、金に困っている。



――なに焦ってはるんや、全部わてがええようにするさかい、わてに任せて稽古に精出し。

やっとそう言った秋斉に、にっこり笑って応えたおりん。


結局、今の自分とおりんを繋ぐものは、返せない借金だけなのだろうか。





「秋斉はん、こちらどしたか。」

振り返ると、お柳が小さな丸盆を持って立っている。

「すんまへんなぁ、お声掛けたんどすが、お返事がないよって。」

「…かまへんよ。なんや?」

縁側に膝を折って座りながら、お柳は丸盆に載せた酒を秋斉のほうへ差し出した。

「このところのおなごらのことで、お話が。まぁ、どうどす?」

「……よう冷えとるな…」



美味い酒だった。
さらさらと、心地好く喉を流れていく。




最近入った娘の様子、新造達の芸の上達具合、はてはご贔屓筋の懐具合まで、お柳の話は淀みなく続く。


――こうして聞いていると、お柳はつくづく有能だ。
元太夫だけあって、気配り目配りに長けている。

それに、と秋斉は思った。



――美しいな。

ほのかな月光が、整った鼻筋の陰影を映す。
透き通るような白肌は、とても三十過ぎには見えない。
切れ長の目と、対称的に少し厚みのある下唇には、実に色っぽい艶がある。

笑顔や愛嬌で人気を得た太夫ではなかったろうな、と思う。
今宵はなぜか、そんなことが頭に浮かぶ。



……酒が、回ってきたか…?


お柳を見ると、さっきから変わらずずっと喋り続けている。
しかしその言葉は秋斉の耳に届かない。

月明かりの下で、お柳の舌がひらひらと動く。
まるで口から出た赤い蛇が動いているようだ。


急にぬるい風が吹いて、ざわざわと木の葉の擦れる音に、妙に不安になる。

虫の音は、すでに堪え難い耳鳴りとなって。








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