『忘八』


□九、光
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「……はん、秋斉はん!いつまで寝てはるんや!旦那はん、ふて寝してはる場合やおまへんえ。」

ずかずかと秋斉の部屋の中まで入ってきて布団を引きはがすのは、この置屋では遣手のお柳しかいない。

まだ覚醒しない秋斉の額を、お柳が遠慮なくぴしゃぴしゃと叩く。

「山喜屋はんの迎えが来る頃どす。はようその寝癖を直しなはれ。おなごらは稽古、店のもんは用足しに出しましたよって。」


「…さわがしぃ」

目を閉じたまま秋斉がその手首を掴むと、少しも動じないお柳が続ける。

「おなごにとって、初恋の相手は特別え。おりんはんの為に、しまいまで格好つけはったらどうどすの?」


するり、秋斉の右手から力が抜けた。

お柳は掴まれた手首を大袈裟に痛がるそぶりをし、……まったく手のかかる旦那はんや、とぶつくさ言いながらも秋斉の身支度を手伝った。



「さあこれでよろし。後は顔洗ってしゃきっとしはったらええ。」

お柳がバシッと秋斉の背中を叩く。

「……百年も冷めへん恋の仕上げや、旦那はん。」


お柳の物言いが、いつもより優しい。






「これでどうや?」

庭を横切り、井戸で顔を洗うと、手ぬぐいを持ってそこまで着いてきたお柳に尋ねる。

お柳は上から下までじっくりと秋斉を眺めた。

「ん、ええ男振りどす。あと十年若かったら、わてかて惚れてまう。」

「なんや、まだ惚れとらんかったんか。」

「その調子や、旦那はん。」



叙情や余情のかけらもない、そんな軽口を叩きながら、平静を装い、おりんの待つ部屋へ向かった。

「髪結いは呼べんかったけど、わてが結うたら、あの娘は喜んでくれたで。…もぅ、随分待ってはるよ。」


お柳に促され、咳ばらいを一つして襖を開けると、顔だけこちらを向いたおりんが座っていた。

山喜屋が用意したものであろう、初めて見る真新しい振袖、ゆいわたに直した髪。

三年間も共に暮らして初めて見る風情の…まるで大店の箱入り娘のような、初々しい、きらきらと輝くようなおりん。


おりんはきっと、ずっとこうあるべきだったのだ。



「……」

「…秋斉はん?」

お柳は気をつかったのか、裏口を見てくると言って部屋には入らない。

二人はしばし無言で向き合い、やがて秋斉が口を開いた。



「……よう似合ってはるな。」

おりんは微笑んで頷く。

「……あちらでは山喜屋はんによう尽くして、たんと可愛がってもらうんやぞ。」

「…へぇ。旦那はんも、お達者でいとくれやす。」



そんなありきたりな穏やかな言葉で、夕べの秘め事も、哀しい別れも、二人は全部包んで隠してしまった。


心はもう、渡してある。
元より言葉では、言い尽くせぬ。





山喜屋が寄こした駕籠は、目立たぬようにと派手なものではなかった。

しかしお柳に手を引かれたおりんが乗り込もうとすると、きゃっ、と女二人から歓声があがった。

秋斉が覗いてみると駕籠の中には四隅に、どうやって見つけたか、早咲きの竜胆の入った花器が付いている。


おりんは嬉しそうに乗り込み、発っていった。





思い描いていたものとは随分と違ってしまったけれど、これが二人の見つけた新しい答え。


さんざんと闇を歩いた後だから、それはまばゆい、始まりだった。





「あのじい様も、本気どすなぁ。」

「…大した御隠居や。」

だから託した。
秋斉が認めた、男だから。



「お柳、…俺は今も、不粋な東男か?」

切れ長の瞳だけ、ちらりと動かして問うてみる。

「さあ……その流し目だけは、負けてまへんけどな。」



いつの日か、自分もなれるだろうか。

強く、優しくあるための力を蓄え、その使い方を知る男に。

大事を成し終え、そして再び、おりんに会いに行けるだろうか。




いつか彼方の、
こんな夏の終わりの日に。





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