空に満つ


□第二話
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昼下がり、夕刻には女達の慌ただしい準備が始まる置屋では、束の間の穏やかな時間。

個人的な用事を済ませたり、ご贔屓筋に礼状をしたためたりと、ひっそりとした時間が流れる。



そんな中、秋斉は慶喜から届いた手紙を読んでいた。

七月に駿府に移り住むことの知らせが、長引きそうな新政府と奥羽諸藩の戦を憂慮する言葉と共に、淡々と綴られていた。



読み終えて早速知らせてやろうと、琴子の部屋へ足を向ける。



琴子はん、と襖越しに声をかけたが返事はない。

四半刻前まで、琴子の稽古に付き合っていたのだ。その後何処かへ出掛けた様子もなかったことから、秋斉はもう一度声をかけながらそっと襖を開けた。



――おや。


さっきまでの熱の入った稽古で疲れたのか、琴子は畳の上でころんと丸まって規則正しい寝息をたてていた。

秋斉はその側らに静かに膝を付いて琴子を覗き込む。
無防備に小さく口を開けて眠る艶やかな頬を指先でそっと撫でると、琴子は僅かに身じろいだ。その横に座り直して、秋斉はもう一度手紙を読み返した。






慶喜の命が助かり、徳川家も存続したのだから、新政府の処断は大甘と言っていい。

しかし、人並み外れて英明かつ気力体力とも充実した慶喜が、この変革の時に何も出来ず、長すぎる隠居生活を送るのだ。
そう思うと、やはりやり切れない思いが湧き起こる。




慶喜に懸けたこれまでの秋斉の人生だった。
それも、全てはこの国を思えばこそ。


新選組の土方はそんな秋斉を、慶喜以外の人間を駒のように扱っている、と言った。

秋斉はそれを否定しなかった。
それこそ、けいのような若い女までも、犬死にさせてきたのだから。


しかしその結果がこれだ。

慶喜は若くして、弱冠六歳の亀之助(後の徳川家達)に家督を譲っての隠居謹慎。

世間では、専ら兵を捨て逃げた卑怯な将軍と蔑まれている。

そして戦はまだ終わらない。
土方は、今日も何処かで斬り結んでいるだろうか。





――俺のしてきたことは、何の実も結ばなかった。
ならば俺のしたことは、ただの……人でなしの所業だ。





秋斉はまだすやすやと眠る琴子を見やった。
化粧前のほんのり桜色に上気した素肌、客には見せないその顔は、起きている時よりずっと幼く見える。
愛しさに思わず顔を近づければ、甘い香りが秋斉の胸を切なく満たした。


……このまま抱いてしまいたい……。


この安らかな寝顔を守ること、今やそれが秋斉のただひとつの願いだった。
それ以外に、もはや自分の生きる意味を見つけることは出来なかった。


しかし、琴子を取り囲む世界の中で、秋斉ほど業の深い人間もいまい。
自分こそが忌むべき存在であることに、秋斉はうろたえた。



全ては信念の為だった、と開き直ってしまえる程、秋斉はもう若くもなく、愚かでもない。


秋斉はじっと息を潜め、触れもせず、
琴子の寝顔を見つめていた。


途方に暮れたようにただ、
いつまでも見つめていた。








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