空に満つ


□第六話
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俺を見る、藍屋さんの纏う空気がいつもと違った。


置屋に戻ってきて俺を見つけた目には、無表情な整った顔でも隠しきれない「敵意」があった。



俺は少し前まで琴子の首筋に手を這わせ、触れんばかりに顔を突き合わせていた。

好きな女と上手くいっていない男特有の勘の鋭さで、藍屋さんは俺に琴子を捕られまいと駆け戻ってきたのだろう。

弾んだ呼吸を飲み込むように急ぎ整えるのは、慌てていると俺に気取られたくない何よりの証拠。


――だったら最初から、素直に離さずおけばいいものを。


いつも一分の隙も見せない藍屋さんが、こんなに揺れているのを初めて見た。

しかし、それは俺にも好都合。

藍屋さんが今、琴子の友人の若造、ではなく俺を一人の男、として見ているのなら……話をするにも通りがいい。





「……俺にしか語れない、歴史があります。徳川……秋斉さん。」

深呼吸をひとつして、俺は話し始めた。






―――例えるなら、徳川幕府は約二百六十年に渡ってこの国を守った、大きな建物だった。しかし長い年月の風雪に耐える間に、屋台骨も屋根も、土台も全て痛んでしまった。

もはや修理不能な建物を外国の金で一時凌ぎの補修していたら、いつか母屋を乗っ取られる。
それを分かっていたから、あなた達二人は自分の手で……その建物を壊したんだ。


幕府が権力に執着して、フランスの援助を受けてでも戦いを続けていたら……新政府だって、きっとイギリスの力を借りるしかなかったと思う。

でもそれはこの日本を戦場にした、イギリスとフランスの代理戦争を意味する。

国は焼けて、外国の武器商人だけが儲けて、結果どちらが勝っても日本は植民地になる。


あなたはそこまで見通していたでしょう?

京でも、大坂でも。




そこまで一気に話した。
藍屋さんは腕を組んだまま、僅かな空気も動かさない。



(画/ダイヤ様




―――明治維新は、フランス革命のように飢えた民衆が蜂起したわけじゃない。下級武士が大きな役割を果たしたとは言え、支配階級の武士が起こしたものだ。
充分沢山の血が流れたけど、民衆の犠牲は最小限ですんだし、江戸の町も焼けずにすんだ。



俺達が学んだ歴史の本には、
「第十五代将軍徳川慶喜は、大政奉還で政権を朝廷に返還し、江戸城を無血開城した徳川幕府最後の将軍」
と、ほんの数行書いてあるだけだった。


戦って何かを得た人物に比べたら、戦わないことによってこの国を守った慶喜さんの功績は、あまりにも分かりづらい。


歴史は、いつも勝者によって後から創られる。

そして人は、分かりやすいものにばかり目を奪われる。
人の心も、それにたなびく。


慶喜さんは龍馬さんや高杉さんのように、維新の英雄と呼ばれることもなく、
戦って死んだ新選組や会津の兵ほど、語り継がれ人々の記憶に深く残るわけでもない。

ましてその隣にあなたがいたことを、知る者は未来にはいない。


だけど、俺は知ってる。


日本が植民地にならずに近代化を成し遂げたのは、目に見えない働きをした沢山の人がいたからだ。


誰も言わないから、
俺が言いますよ?


「あなたと慶喜さんは日本の礎を守り、俺と琴子のいた未来を……残してくれた……。」








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