"運命"だなんて、目に見えなくて手にも触れないものが本当にあるのだとしたら。
時間をさまよった私が彼に出会って、恋をしたのは運命と呼んでもいいのかもしれない。
神様はきっといるのだろう。だけどそれは思いもよらない現実を突き付けては、上から眺めて私の出来をチェックしている、悪趣味な神に違いない。
「土方さんに、今日こそは絶対にあなたを抱いてこい、って言われましたよ。」
「今日こそ……ですか?」
ようやく暮れた島原の夜は、大門をくぐる客足が増えてくる頃。
ざわつき始めた街を格子戸一枚向こうに感じ、くすくすと笑う沖田さんが、私に盃を差し出した。
「ええ、だからこう言ってきました。振袖新造に手を出すのは御法度だし、なによりこれは私の片想いだからって。」
お銚子を傾けながら、私は頬を上げて沖田さんの顔を覗き込む。
「……嘘つきですね。」
「いいんですよ。私をたきつけるのは土方さんの楽しみなんですから。わざわざそれを奪うこともないでしょう。」
くいっと呷った盃を逆さにして、待ちきれないといった風に沖田さんは私を抱き寄せた。
「それとも、嘘つきは嫌い……?」
その囁きに答えるだけの猶予もなく。
揚屋の仲居さんに気付かれぬよう、明かりはいつもそのまま。夜具も使わず、私達はまるで駆け出すようにもつれあう。
……私達には、時間がない。
いつか、ふいに番頭さんが次の座敷を知らせに来るだろう。
それとも、思いがけず早くに客の帰った菖蒲さんが来るかも知れない。
切れ者の楼主は、もう怪しんでいるだろうか。
それでもひっそりと、私達はこんな夜を繰り返している。太夫を目指すことはとうにやめた。
閉じた瞼で色んなものを見ないふりして、私達は今だけを感じ合う。振り落とされぬよう、私はしがみつくだけだ。
あの夜から。
……私達には、時間がない。
「情熱が体を焼き尽くす」
そう言ったのは、看護師をしていたお母さん。
不規則な勤務時間だったお母さんととる夕食は、まだ明るい夕方だったり、お腹ペコペコの9時近くだったりまちまちで。お父さんはいつも帰りが遅かった。
なんでそんな話になったんだろう?あの時は学校から帰って着替えるとすぐに夕飯に呼ばれた。
テレビはどれも夕方のニュース番組で、私が消そうとすると、珍しくお母さんは少し大きな声で駄目、って言った。
――都内の複数の大学で、相次いで集団感染の報告があがっています。
一体何をそんなに真剣に見ていたのだろう?
――免疫力の低下が原因で発症することが分かっており……。
「……無理なダイエットとか、駄目だからね。」
「何の話?」
「結核、増えてるんだって。昔は労咳って言ったのよ。」
「ふーん。」
あの頃はそんなものに興味はなくて、どんなものにも大して興味はなくて。私はお母さんが作ってくれたロールキャベツを頬張って、そのニュースが終わるのを待っていた。
「医学が発達する前、結核は“情熱が体を焼き尽くす病い”だと思われていたの。」
……情熱が体を焼いてしまうなら、何かに一生懸命になる時はどうしたらいいのかな。
いい加減に聞きながら、私は軽い気持ちでそう尋ねようとした。
ふいに、お母さんがテーブル横のブラインドの角度を絞ろうとして、間違って全開にしてしまった。
西から差し込む陽射しに、ダイニングは一瞬で燃えるようなオレンジ色に染まる。うわ、と眩しくて目を閉じて、だから私は、言いかけた言葉を飲み込んでしまったんだ。
あの時訊けなかったその答えを今、私はこの幕末で探している。
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